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Your Eyes Only 10

「……何を言ったんだ」
 これを訊かないわけにはいかないだろう。朝倉の急な様子の変化は古泉のささやきひとつが引き起こしたものだ。ヒューマノイドインターフェースの動きを止める、秘密のコードか何かがあったとしても、それを古泉が知っていたわけがない。
「伝言を伝えたまでですよ」
 古泉は腕時計の盤面に視線を落としながら答えた。
 まだ時間に余裕はある。俺と古泉はもはや急ぐこともなく、淡々としたペースで旧館への渡り廊下を歩いていた。
「伝言って、長門のか」
「そうです」
 ありがとう。ただそれだけの言葉を伝えるべき相手は朝倉だったのか。確かにほかに該当しそうな人物はいなかった。
 だが、どういう意味だ?
 俺はよほど腑に落ちない顔をしていたに違いない。古泉は小さく笑った。
「僕はあなたに聞いた話から推測することしかできませんが、朝倉さんにとって長門さんは必要不可欠な人だった。ですが長門さんにとっての朝倉さんはそうではなかったのでしょう。朝倉さんはそれを知っていた。自分をこの世界に生み出した神から存在を認めてもらえなかったようなものです、きっと不安だったに違いありません」
「あいつはそんなことを考えるような女じゃないぞ。第一、あいつには人間の感情ってものがわからないんだ」
「本当にそうでしょうか」
 静かな古泉の目に見つめられると俺は何も言えなくなった。俺の世界の長門が次第に血の通った反応を身につけていったように、朝倉もまたそうでなかったとは言い切れない。少なくとも三年以上は、朝倉も長門同様この世界に生きて呼吸をしてきたのだから。
「長門さんの伝言は、朝倉さんに初めて与えられた許しのようなものだったのではないかと思いますよ」
「……わからんな。なぜそれが攻撃をやめる理由になるんだ」
「彼女は自分のために行動していたのではないのです。自分自身が存続しようと、消えてしまおうと、彼女にはどうでもいいことだった。彼女はただ長門さんに尽くすことでしか、自分の存在意義を確立することができなかったのではないでしょうか」
「……だから」
「長門さんに肯定的に受け入れられることで、朝倉さんは、それ以上の行動を起こす理由をなくしたのでしょう」
 俺は口をつぐんだ。わかるようなわからないような話だった。それに必ずしも古泉の解釈が正しいとも限らなかった。
 思わずため息をつくと、古泉はその隣でぽつりとつぶやいた。
「僕は彼女の気持ちが少しわかるような気がしますよ」
 その彼女ってのは朝倉のことなのか長門のことなのかと尋ねようかと思ったがやめておいた。藪から蛇をつつき出しそうだった。
 次第に日は暮れかけており、渡り廊下には斜めになった陽射しが長く射し込んでいた。その廊下もあと数歩で尽きる。その先には旧館があり、階段を上ればもう文芸部室はすぐそこだ。
 この世界とはお別れだ。
 しんと胸の奥が冷えていく感覚があった。なんだこれ、俺はもっと喜んだっていいはずだろうに。
 授業のない土曜の午後だ。文科系の部室ばかりの旧館にはほとんど人気というものが感じられない。暖房もなく空気が冷え切っている。廊下にも階段にも明かりは点いておらず、全体的にぼんやりと薄暗い。
 階段の上り口へさしかかったところで突然古泉は足を止めた。
「ここから先はおひとりでどうぞ」
 ささやかれた言葉に俺は思わず立ちすくんだ。
 わかっていたことだった。俺はそのためにここへ来たのだ。
 それなのにどうしてか、いまさらでしかないことを尋ねずにはいられなかった。
「おまえは本当にそれでいいのか」
「それで、とは?」
「俺が帰ると、その瞬間にこの世界は消えるかもしれないって言ってただろう」
「消えないかもしれないとも言いましたよね。それに消えるとしても、それは消滅というよりは、再変換され、もとに戻るということなのではないですか」
「それが問題なんだ。だっておまえは」
 俺は言葉を呑み込んだ。
 だっておまえは、三年前に突然目覚めた妙な力だとか、否が応にも関わらざるをえなかった戦いだとか、世界の成り立ちに対する根源的な不信感だとか、そうしたものをみんな厭わしく思っていたはずじゃないか。
 ごくごくありふれた平和な学園生活を夢見ていたのは、長門だけじゃなくて古泉、おまえもだったはずだ。
 こんな思わぬ形であっても、せっかく実現したそれを俺が奪うことになるなんて。
 あまりにも残酷な話じゃないか。
 黙ってしまった俺を見かねたのか、古泉は一歩俺に近づいた。ふれることのない距離で、やさしくささやく。
「何はどうあれ、残される僕たちについてはあなたが気に病む必要はありません。涼宮さんもきっと同じことを言うでしょう」
「だけど」
「それより僕は、最後にひとつだけあなたに尋ねたい」
 ふいに古泉の声の質が変わったと感じた。はっと顔を上げた俺の目に、古泉の表情は夕闇にまぎれて、はっきりとは捉えられなかった。
「あなたは僕に、おおむね本当のことを話していたと思います。ですがひとつだけ」
 わずかに言葉を切って、静かにつづけた。
「嘘をついている。いえ、あえて話そうとしなかったと言うべきでしょうか」
 突然、心臓に痛みを感じた。鼓動が早まるのを抑えることができない。喉が干上がっているような感覚、これは錯覚だろうか。
 何も言えずにいる俺に向かって、古泉はやさしいとも思えるような、おだやかな声で尋ねた。
「あなたと、あなたの世界の僕とは、どんな関係にあるのでしょうか。少なくとも普通の友人同士などではないはずだ。違いますか」
 俺はぎゅっと目を閉じる。答えられない。だがその答えないということが、何よりも雄弁な返答だった。
 気づかれていた。しかし俺も、古泉が薄々勘づいているだろうということに気づいていた。互いに黙っていたのは、それを明らかにして問題を表面化させることを避けるためじゃなかったのか。
「……無理に答えていただこうとは思っていません」
 古泉の声はあくまでやさしく、俺はかえってそれに気がとがめて苦しくなる。
「おまえはハルヒのことが…」
 好きなんだろうとはつづけられなかった。その前に古泉が、おだやかながらも断固とした声でこう言った。
「あなたに行かないでほしいとは言いません。…言えません。でもその前にひとつだけ、僕のお願いをきいてはもらえませんか」
 俺は目を見開く。古泉の表情は相変わらずよく見えない。ただその見慣れたシルエットが、ゆっくりと一歩、俺に近づく。
 俺は今どんな目でおまえを見ている?
 おまえは今どんな目で俺を見ている?
 拒絶なんかできるわけがない。

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[20071204]