GAME a
その翌日のことだ。
放課後に僕が部室の扉を開けると、彼はもう到着していて、期待に満ちたまなざしで僕を見つめた。
何を期待されているのかなんて、あえて尋ねるまでもなくわかっている。
しかし僕はゆうゆうと室内に足を踏み入れ、いつもの席まで行くと、机の上に鞄を置いた。
「こんにちは」
「こんにちは」
ほがらかな挨拶を返してきたのは朝比奈さんだ。この小柄な上級生はすでにメイドの衣装を着込んで、今日もお茶汲みに余念がない。長門さんはといえばいつもどおりに窓際で本を読んでおり、彼は僕の正面の席でそわそわした様子でいる。
ただ涼宮さんの姿だけが見えない。
「忘れずに持ってきただろうな」
彼が身を乗り出して尋ねてきた。まったく、これまで彼からこんなに輝く目で見つめられたことがあっただろうか。果たして僕はこれを喜べばいいのか否か、悩ましいところだ。
「もちろん持ってきましたが」
僕はパイプ椅子に腰を降ろした。朝比奈さんが差し出してくれた湯飲みを受け取り、ありがたくひとくちいただいた。
「涼宮さんがまだのようですね。あの方がいらっしゃる前に種を明かしてしまったら、がっかりなさるのではないでしょうか」
「ゲームの主体はハルヒじゃなくて俺なんだぞ」
彼がむくれた顔をするのに僕は微笑んだ。
「もちろん存じておりますよ」
なにも意地悪をしたいわけではないのだが、こんなふうに彼に対して優位に立てるのもそうそうあることではない(といっても、なんとささやかな優位性だろう!)。僕はあえてもったいぶって、机の脇によけられていたオセロのボードを引き寄せた。
「先に今日の分の勝負をするのはいかがですか?」
「それは俺の気を散らして勝利をもぎ取ろうっていう姑息な精神攻撃なんじゃないだろうな?」
「まさか」
小さく息をもらして僕は笑った。
「あなたはそれくらいのことで僕に勝利を恵んでくださるようなやわな方ではないでしょう」
「そうも慇懃無礼に言われると、ちっとも褒められているように聞こえないのがふしぎだな」
「おやおや、あなたも疑い深くなったものですね」
「ああ、おまえのおかげでな」
そんな会話を交わしながらも、彼の手はオセロの黒石を取り、ぱちりと打った。
勝負が始まると僕は真剣になった。いつもなら別の何かに気をとられている朝比奈さんも、なぜか今日は椅子を引き寄せ、盤面に目を凝らしている。彼はあまりご機嫌うるわしくない様子で、ぱちりぱちりと冷酷に石を置く。気を散らしているとはとても思えない。
僕は内心ため息をつく。僕がボードゲーム全般に弱いのはまったくの事実だった。意図的に手を抜いているのではなく、ただ弱い。コンピュータ相手の対戦や、彼以外の人間を相手にしたときはそこそこの結果を出せるから、これは彼限定の現象だった。なぜ彼に勝つことができないのか、その理由を僕も知りたいと思っている。
こうして彼と一対一で向かい合い、真剣にひとつのことに取り組むのが楽しくて、満足してしまっているのだろうか。それとも彼を眼前にすると、すっかり気もそぞろになってしまうのだろうか。集中力を妨げられるほど、僕は彼に……?
わからなかった。あまりはっきりわかってしまってはいけないのかもしれないと思うこともあった。少なくとも彼とゲームをするこの時間は僕にとって非常に貴重なものだった。この三年間で見つけた最上の精神安定剤だった。
僕はこの時間が楽しい。どれだけ続けても苦痛には感じない。
しかし彼はそうではないのかもしれない。
僕はちらりと彼の表情に視線を走らせた。
賭けを持ち出してきたことの裏には僕に対する牽制が含まれてはいないのだろうか。ペナルティを課すことで、不本意ながら負ける確率が非常に高い僕にプレッシャーを与え、勝負そのものへの意欲を失わせようといった意図が。
そうであるなら悲しいと思い、しかし、とまた考えた。
ゲームはこの一回では終わらない。アルファベット全二十六文字を指定してきたのは彼だ。つまりは少なくともあと二十五回、彼はこのゲームにつきあってくれようとしているのだということに自分で気づいているだろうか。
朝比奈さんに見守られながらの勝負は淡々と続いた。圧倒的に彼が優勢であるのは言うまでもなかった。これはもう結果が見えている。明日はBで始まる何かを持ってこなければならないようだ。
そう考えたときだった。
ばたばたと廊下に足音が響き、部室の扉が勢いよく開かれた。
「ごめん、遅くなっちゃって! ……って、キョン、古泉くん、なにもう次のゲームやってんの?」
涼宮さんだった。その声にかぶさるように、彼の冷静な声がひとこと告げた。
「俺の勝ちだな」
まさにその瞬間、角をとった彼の黒石が、完膚なきまでに僕の白石をひっくりかえし、勝負を決めた。
ほう、と息を詰めていた朝比奈さんがやわらかな呼吸をした。涼宮さんはその肩口から身を乗り出して盤面を見つめた。
「これはまた見事な負けっぷりね古泉くん」
「お恥ずかしい限りです」
「どうしてキョンなんかに勝てないの?」
「さあ、それは僕にもわかりかねます」
「一度あたしとやってみない?」
「ええ、かまいませんよ」
僕はにこりと笑った。涼宮さんは賢い人だから、オセロも決して弱くはないだろう。しかし彼を相手にするときほどには負けない予感がする。
「その前にあれだ、昨日の分のペナルティを出せ」
彼が不機嫌な声で割り込んだ。そんなに気が急いていたのだろうか。涼宮さんも一緒になって目を輝かせた。朝比奈さんも僕に注目している。長門さんすらわずかに顔を上げていて、このSOS団に参入して以来、これだけの注目を集めた記憶などないくらいだ。
「つまらないものでがっかりさせてしまいそうですが」
僕は鞄を引き寄せた。中から慎重に『それ』を取り出し、すいと手首をひねって空中に浮かせた。わあ、と朝比奈さんが大きな目を見開いてその軌跡を追った。
紙飛行機だった。
「Airplane」
正確な発音で涼宮さんがつぶやいた。
「こぎれいなものを用意しやがって」
どこか悔しそうな口調で彼が言うのに、反論したのはなぜか涼宮さんだった。
「自分の持ち物の中で、なるべくお金をかけないでって条件は見事クリアしてるじゃない。何が不満なのよキョン」
「本当はAir、空気にしようと思ったのですが、ビニール袋に空気を詰めてきて、これが僕の部屋の空気ですと言っても信憑性が薄いかと思いまして」
「それはそうよね、特徴的な匂いがするとか色がついてるとかってわけじゃないし」
「やけにいい匂いとかしたら腹が立つしな」
「なんでそう古泉くんにつっかかるのよキョン」
涼宮さんはきょとんとした顔で彼を見つめた。彼はどこか不満気に、机の上に肘をついている。彼が僕に何を望んでいたのかは涼宮さんでなくても謎だ。
「はい、これ」
朝比奈さんが部屋の端まで飛んで落ちた紙飛行機を拾ってきて、僕の手に戻してくれた。
「ありがとうございます」
それは僕の部屋の中にあったいらない紙で作ったもので、ほとんどゴミも同然だったが、約束であるから僕はそれを彼に差し出した。
「ご不満のようですが、これが僕のAです」
「別に不満ってわけじゃ」
彼は不承不承といった態度でそれを受け取り、ちらりとその裏側を見て、眉をひそめた。
涼宮さんはいつもの団長席へと戻り、メールチェックを始めた。長門さんは本に視線を戻し、朝比奈さんは涼宮さん用のお茶を淹れるためにポットの前に立った。
彼は小声で僕にささやきかけた。
「紙飛行機でもなんでもかまわんが、使う材料には注意しとけ」
なんのことかと思ったが、彼が一瞬僕の方へと向けた、紙飛行機の翼の裏側を見て謎は解けた。
そこには僕が『機関』に報告書を提出するために書いていたメモが残されていた。
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[20080618]