GAME e
まさか。と古泉は言ったし、俺も完全に同意だった。
まさか。と言ったのはハルヒもで、まるっきり予想外だったという顔でチェスの盤面を見つめている。
その日のゲームは予告通りにハルヒが俺のかわりに戦った。チェスを選んだのはハルヒだったが、深い意図があったとは思えない。先手、白のポーンをハルヒが進め、戦いの火蓋は切って落とされた。
長門はあいかわらず読書に励んでいたが、朝比奈さんはよくわからないままにハルヒの隣からチェス盤をのぞき込み、俺は対峙するふたりから均等な位置に椅子を引き寄せてきて腰を下ろした。
とりあえず座っておいて正解だった。立ちっぱなしじゃつらかっただろう。そう思うくらいに戦いは長く続き、しかも白熱した。
それは見るからに頭のいい奴同士の戦いだった。多分どちらの頭の中にも二手や三手、いやもしかしたら十手くらい先が読めているのかもしれない。空気はぴんと張りつめていて、よけいな茶々を入れる余地がなかった。
チェス盤に駒のふれる硬質な音だけが淡々と室内に響き、俺は息を殺して勝負の行方を見守った。
おそらく実力差というものはほとんどなかった。だから結果を決めたのはほんの小さな偶然やちょっとした意気込みの違いでしかなかっただろう。
勝ったのは古泉だった。辛勝ではあったが、確かにそれは勝利だった。
「古泉くんは……もしかして、キョン相手のときは手を抜いてるの?」
「そんなつもりはないのですが」
難しく考え込んだ顔つきのハルヒに対して答えた古泉もまた腑に落ちないと言いたげだった。気持ちはわかる。
なんだって俺には勝てないくせにハルヒには勝てるんだ。ハルヒだって別にチェスの日本大会で優勝した実績を持ってるとかいうことはないが、少なくとも俺は間違いなく負ける自信がある。十回やっても十回とも負けるだろう。それくらいの実力差が多分ある。
なのにそんな俺に古泉が勝てないというのは理論上おかしい。これじゃあ三すくみだ。
「納得いかないけど、負けは負けだわ」
潔く言ってハルヒは立ち上がり、すっと古泉に対して手を差し出した。
「さすがね古泉くん。副団長としてあたしが選び抜いた人材に間違いはなかったわ」
選び抜いたっておまえ、時季はずれの転校生だからって理由で引っ張ってきただけだろうが。
しかしながら空中でかわされた握手は若干感動的だった。古泉もようやく少し嬉しそうな顔をした。こんなしょうもないものではあっても、神と崇める団長さまに勝っちまって本当にいいのか? そんなつっこみを入れてやりたい気もしたが黙っておいた。へたに勝ちを譲って見破られたらそのときこそハルヒは激怒じゃすまさないだろう。対等な相手と認めてもらえないことほど誇りを傷つけられることはない。
だからなあ古泉、おまえがもし俺に対して手を抜いているなら、俺はおまえと永遠に縁を切るとか、そういう態度に出なけりゃならん。
だが本当にそういうわけではないようなのだ。本人にも理由がわからないらしいのに俺にわかるはずがない。謎だ。ミステリーだ。誰かこの場に今すぐ名探偵をつれてくるべきだ。
しかし残念ながらそんな知人はいなかったので俺は腕組みをして沈思黙考するにとどめておいた。現存する名探偵に心当たりがないなら霊媒体質の誰かに有名人を呼びだしてもらうのでもいい。ただしもっと残念なことに霊媒体質の知人もいない。
いっそここは長門あたりにシャーロック・ホームズあたりを憑依させるといいんじゃないかとかよけいなことを考えていたので少し目の前で展開されていた会話を聞き落とした。
「てなわけだから、明日はイニシャルFをよろしくねキョン」
「はあっ?」
いきなり名指しされてびっくりしたというよりも、その内容のほうに驚いた。
「負けたのはおまえなのに、ペナルティだけ俺が引き受けるって変だろ!」
「なに言ってんのよ、あたしはあんたのかわりに戦ってあ・げ・た、んじゃない、結果と責任を引き受けるのは当然でしょ」
強い目で睨みつけられるとぐうの音も出なかった。まあ確かに言われてみればそのとおりで、なおかつ俺は古泉が負けっぱなしなのは面白くないと思っていたわけだから、むしろこの結果は望むところであるはずなのだ。しかしF。Fねえ。
「わかった」
しぶしぶを装いうなずいてみせたあとで、俺はおもむろに古泉に手を差し出した。
「じゃあ昨日の分の取り立てだ。おまえのEを見せてみろ」
古泉は涼しくにこやかに微笑んだ。鞄から取り出したのは一辺十センチほどの無地の紙の切れ端とペンだった。俺とハルヒとついでに朝比奈さんまでもが見守る前で、古泉はさらさらと紙にペンを走らせた。
「e=mc2。僕の知る中で最も美しい方程式、equationです」
斬新な選択だと感心していいのか、理系の奴の発想ってやつはとあきれればいいのか少し迷った。形のないものでもかまわないことにはなっていたが、そもそもこれは提出物のルールからはみ出してはいないだろうか。アインシュタインの関係式はおまえの持ち物じゃないだろう。
しかし古泉が幼い子どものような嬉しそうな目をしていやがったので、俺は無粋なつっこみは一切なしでその紙切れを受け取った。
> f
[20120101]