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GAME f

 その日は朝からそわそわとして、放課後がひどく待ち遠しかった。
 天気はよく、気温は快適で、当面憂うことはなにもなかった。
 僕は多分うかれていた。その自覚は十分にあったが、改めるべきなのかどうかがわからなかった。とりあえず態度として出てはいないだろうし、咎め立てをしてくる人もいない。
 だったら問題ないじゃないかといささか乱暴に考え、そういう結論に達すること自体が普段の自分の行動様式から外れているのだと冷静に考えもした。しかしだからといって特に反省もしなかった。
 僕はうかれている。たかだかチェスに勝ったくらいのことで。しかも厳密には対戦相手は彼でなく、涼宮さんだったというのに。それでも勝ったことが嬉しい。彼が懸命に考えてFで始まる名前の何かを部屋で探しただろうことが嬉しい。
 ばかげている。やはり冷静にそう思った。こんなことでは、いつか実力で彼を下したときにはどうなってしまうのだろうか。二十六戦もあるのだから、いつかは勝つときがくるはずだ。偶然にしろ、必然にしろ。
 なぜ彼に負け続けているのかという問題からは目をそらして僕は放課後を待った。純粋に彼の持ってくる何かが楽しみだった。
 彼もずっとこんな気持ちだったのだろうかと初めて想像した。
 ひどく長く感じられる授業時間を上の空ですごして、いざ文化部棟の部室へ向かうとそこにはまだ長門さんしかいなかった。
「おや」
 朝比奈さんがまだというのは痛い。なぜなら彼女は部室に来るとまず着替えをしなければならない運命で、その度に僕と彼とは廊下に退避しなければならないからだ。
 しかしはじめから廊下で朝比奈さんの到着を待つのも時間の無駄で、僕はとりあえずロッカーの中から今日のゲームを選び出した。昨日と同じでチェスというのは彼に嫌がられるだろうか。
 少し迷いつつも机の上にチェスボードを置いたとき、窓際から思いがけない声が響いた。
「あなたは彼と対戦するとき自らのスペックを低下させている」
 ふりむいた。わずかに逆光になり表情が見えにくいがそんなものは見えても意味がない。僕には彼女の表情を読みとれるほどの観察眼がない。
 声の主は長門さんだった。この部屋にほかに人間はいないのだから当然だったが、彼女が自分から僕に声をかけてくるというそのこと自体にかなりの意外性があった。
「決して意図してのことではないのです」
 いいわけがましい口調になった。だが事実だ。改善できる術があるなら教えてもらいたい。
 しかしながら長門さんの興味は別のところにあるらしかった。
「あなたがこれ以上彼に負け続けると、この部屋の空間に余分な負荷をかけるおそれがある」
「負荷?」
 思いがけない指摘だった。もともとSOS団の部室はさまざまな力がぶつかりあい、打ち消しあい、ホワイトノイズのような奇跡的な均衡を保っている場所だったはずだ。負荷ならすでに十分すぎるほどにかかっている。
「バランスが崩れた場合、なにが起こるか予測不能」
 淡々と言われて自然に眉間に皺が寄った。長門さんに予測できないものが僕に可能なはずがない。かつてコンピ研部長の身に起きたみたいな事態がこの場で発生するのだろうか。それとももっと不可解な何かが。
 備えようとしても無理だろう。せめて心構えをして涼宮さんの目からだけでも隠さなければ。いやそれ以前に僕が負け続けなければいいだけのことなのだが。
「努力はしますが」
 その先の言葉は続けられなかった。勝とうと思って勝てるなら苦労はしない。昨日の勝利だって正確には彼からもぎとったものではない。
 うきたっていた先ほどまでの気持ちがしゅるしゅるとしぼんでため息をつきたくなった。
 そのときだった。廊下に軽く駆けるような足音がして、扉が開け放たれる前からそれが誰だか僕にはわかった。
「古泉くん、キョンは掃除当番で少し遅れるって。あとみくるちゃんが進路指導で今日はお休みするって」
 前置きなしでいきなり用件を切りだしてきたのは予想通り僕らの団長さまだった。僕が注意をそらした0.02秒ほどのあいだに長門さんは椅子に腰を下ろして、本を読むいつもの姿勢に戻っていた。
 僕はひとりで長机のそばに立ち、涼宮さんに微笑みかけた。
「では彼の到着を待ちましょう」
「どうしたの? うかない顔ね」
 実は人をよく見ている涼宮さんは肩から青い鞄を提げたままで首をかしげた。
「なんでもありませんよ。お茶は僕が用意しましょうか」
「そんなのいいわよ。あたしはみくるちゃんのお茶が飲みたいの。みくるちゃんがその日の気温とかみんなの気持ちとか考えてお茶を選んで丁寧に煎れてくれるっていうのがいいの」
 大股に室内に足を進め、団長専用の机の上に鞄を置いて、涼宮さんはぽつりとつぶやいた。
「みくるちゃんがいなくなっちゃったら、どうしようかしらね」
 それは僕たちよりも一年早く訪れる朝比奈さんの卒業のときのことを言っているようでもあったし、本来この時代には属さない朝比奈さんが未来へ戻ってしまういつかのときを憂えているようにも聞こえた。
 僕にはなにも言えなかったし、長門さんも静かに紙面に視線を向けているままだった。涼宮さん自身すら答えを期待してはいなかったのだろう、急にのびあがるようにして顔を上げ、窓を開いて室内に風を入れた。気持ちのいい陽気だった。
 彼がいないとこの部屋はひどく静かなのだと彼は知っているだろうか。誰もが彼を待ち、遠くの音に耳を傾けているのだとわかっているだろうか。
 彼の足音は涼宮さんのものよりずっと静かで特別な特徴も持たないが、どんな雑踏の中からもそれを聞き分ける術を僕たちはいつのまにか身につけてしまっていた。
「わり、遅くなった」
 いくぶん焦った様子で彼が姿を現したときには、僕には十分ゲームに対するイメージトレーニングができていた。
「いえいえ、ちょうどウォーミングアップが完了したところでした」
「なんのだよ。ああそうだ、Fのペナルティの提出と今日の勝負とどっちを先にするか選んでいいぞ。俺の経験によると先にアイテムの提出があると相手の動揺を誘えたりする」
 僕は鼻で笑った。そんな姑息な手段で彼の心を乱せるとは思えなかった。
「ゲームが先でけっこうですよ。さっさと片づけてしまいましょう」
「どうした、強気だな」
「今日は勝てそうな気がするんです」
 長門さんに警告されたこともあり、そろそろ本気で反撃を開始しなければならない。涼宮さんに勝てたくらいなのだから才能がまったくないわけではないのだ。ようはやる気と集中力だ。
 ちらりと机の上に用意されたチェス盤に目をやり、彼はおとなしく僕の正面の席についた。
「いいだろう、こてんぱんにしてやるよ」
「古泉くん、昨日と同じくらいの本気を出せば勝てるわよ。キョンなんかめためたのぎったぎたにしちゃいなさーい!」
 涼宮さんの声援は心強かった。僕は澄んだ湖面に似た気持ちで、ひんやりとしたチェスの駒に指をすべらせた。
 まあ結論から言うと、その後五分ほどで速やかに敗北を喫したのは残念ながら僕のほうだった。
 これはかなりのショックだった。茫然とした。涼宮さんと長門さんの期待を裏切った自分に落胆し、すぐには顔を上げられなかった。
「……まあ、なんていうか、気にするな」
 言いにくそうに彼が慰めの言葉を口にし、涼宮さんは無言で考え込んでいる様子だった。長門さんの無反応はいつものことだが、その横顔にひそかな非難がこもっていても、どうせ僕にはわからなかった。
 気にするなと言われて気にせずにいられるものならどれだけいいか。しかしいつまでも落ち込んでいても仕方がない。明日こそは勝てるように今から準備をするしかない。
 そんな悲壮な決意を固めていた僕の目の前に、彼がふいに手を突きだしてきた。
「そらよ」
 小さな日の丸が爪楊枝の先に翻っている。お子さまライスのライスの上によく突き立っているあれだ。
 F。Flagか。
「うちの親は意外にまめでな。家で作った料理にも普通にこういうのを使ってる」
 きっと家にまだ小さな子どもがいるからだろうが、その一本を台所から拝借してきたというわけだ。なるほど手軽でなおかつ安価だ。
 彼の持ち物という条件からは微妙に外れている気がしないでもないが、もともとあまり厳密に定義したものでもないから細かな文句はやめておく。
 ちらちらと彼の指先で旗がゆれると、それは国際マラソンの沿道でがんばれがんばれと振られる応援の旗のありさまによく似ていた。
 それに少し励まされた気持ちになって、僕はそっと旗を受け取り、手のひらに包んだ。

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[20120101]