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GAME g

 ものすごくいまさらなのだが、その晩僕はチェスの教本を新たに買って家で熟読した。
 ルールなんかもちろん頭に入っている。攻略の初歩も多分把握できている。状況の分析力が足りていないとも思えない。彼に勝てないのはだから技術的な問題ではないとおおよそわかっていながらも、まずはそこのところの確認から始めた。
 これまでは無意識的に彼に花を持たせなければならないと手加減していた可能性がある。だが今は長門さんの警告もあり、涼宮さんからの応援もあり、朝比奈さん……は、ぼんやり見ているだけだが、まあともかく彼すらが僕に勝ちを譲りたいというそぶりを見せているという状況で、もう僕はうかうかと連敗を続けてはいられない。
 もはやこれは義務である。責務である。彼を実力で叩きのめし、僕がSOS団副団長としてゆるぎない足場を築き、なおかつなかば異空間と化している部室を静穏なままで保ち、涼宮さんに決して異常事態を悟らせないという重大な使命が僕には課されている(話が大きくなってきた!)。
 この使命はSOS団副団長としてのものと機関の一員としてのものとできれいに一致している。すなわち命令系統のブッキングによる二律背反は起こらない。僕はひたすらゲームに集中すればいい。
 とはいえ、集中だったら前回のゲームでも十分していたはずで、だったらあとはなにが足りないというのか、結局僕には見当もつかないのだった。
 わずかに寝不足の頭を抱えて上る、北高へと続く坂はつらかった。途中で彼と会わなかったのは幸いだった。きっとあまり爽やかに笑えなかったと思うから。
 金曜日だった。とにかくこの日を乗り切ればフリーな週末が来る。本格的な対策はそこで考えればいい。
 そんなふうに自分を慰めながら放課後を待った。その実、現状においての対策はほぼ白紙なのが情けなかった。
 いざ対戦の時間が来るとじんわりと胃のあたりが重く感じた。これはプレッシャーだとわかって少し意外に思った。自慢ではないが僕は学業においてもスポーツにおいても他人に引けを取ったことがほとんどなく、緊張というものに縁がなかった。それが今、彼とチェス盤をはさんで向き合っているというただそれだけのことで緊張を感じている。
 閉鎖空間で神人と対峙するときはさすがに緊張と畏怖を感じずにはいられないが、それに少しでも類する感情を彼に対してこんな状況で覚えるというのはどこか奇妙だ。
 ふいに彼と正面から目があった。彼は目を細めてこちらを観察している様子だった。僕が必死にならざるをえないこの状況は彼の思うつぼなのかと思いきや、そうでもないらしくどこか気の咎めたような顔をしている。彼は難しい。
 あまり肩に力が入りすぎるのもよくないだろうが、気を抜いたままでは確実に負ける。どのあたりがちょうどいいのか、いまだ加減がわからない。
「チェスでいいのか?」
「ええ。チェスでお願いします」
 彼は気軽に了承し、僕たちはその日のゲームを始めた。
「あっ」
 声をあげたのは朝比奈さんだった。
 対戦する僕たちにお茶を出してくれようとしたのはありがたい心遣いだったが、うっかり手が滑るというのも彼女から省くことのできない重大な要素のひとつだということを失念してはならない。
 大胆に倒れて流れ出した熱いお茶はチェス盤のほとりを浸し、危うく僕の膝までを濡らしかけたところで止まった。
「ごごごごめんなさい今拭きますから」
 うろたえきって右往左往しはじめた朝比奈さんに僕はやさしく声をかけた。
「大丈夫ですよ、落ち着いて」
 チェス盤も駒もプラスチック製だし、実は被害と言えるほどの被害はない。
 開始十分ほど経過していた試合が中断させられたことだけが被害なのかもしれないが、それはむしろ僕にとっては僥倖だった。
 緊張のあまりがちがちになっていた僕はまたしても敗北コースにまっしぐらに突き進んでいた。あのまま試合を続けていたら、まもなくキングをとられていただろう。
 僕は深く息を吸い、ゆったりと吐いた。中断はいい具合に緊張をほぐしてくれた。僕は朝比奈さんに礼を言うべきだった。
 もしやこれは未来人勢力からのひそかな助勢なのかと疑ってもみたが、さすがに考えすぎというものだろう。
 朝比奈さんが机を拭き終わると彼と僕の勝負は再開された。そして約十分ほどの時間をかけて僕の敗北は決定した。
 中断があろうとなかろうと結果は同じだったわけだが、それでも気分はずいぶん違っていた。
「ありがとうございました」
 僕の言葉に朝比奈さんはふしぎそうな顔をしたがそれ以上の説明をする気はなかった。さて、と気持ちを切り替えて僕は昨日の分のペナルティのアイテムを制服の内ポケットからちらりと見せた。
 ピアノブラックの携帯ゲーム機だ。
「最近やっていませんね。そのうち一戦いかがでしょう」
「一戦じゃなくて協力プレイだろ」
「対戦でない分、心穏やかにできると思うのですが」
「じゃあ今度は落ちゲーか何か入れて対戦するか」
「なるほど、それもいいですね」
 久しぶりになごやかに会話が展開した気がする。
「それで、そのゲーム機を俺にくれるのか?」
 しばらくして、ずっと遠くまでそれて羽ばたいていた会話を手元に引き戻して彼が言った。
「ああ、これを渡してしまうと僕の分がなくなってしまいますので、今回は見せるだけで許していただけると嬉しいのですが」
「しょうがないな」
 彼は笑った。わがままな子どもを見守る父親のような笑顔だと思った。

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[20120101]