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 週が替わって月曜日。
 土日のあいだに何があったというわけではないけれど、僕の気持ちは比較的平穏だった。それでいて、そろそろ彼に勝たなければならないという使命感めいたものだけは確として意識の中心に居座っているのが面白かった。
 僕は客観的な見方をようやく取り戻しかけていた。ペナルティが追加されているとはいっても、僕と彼がやっていることは以前となんら変わりがない。彼のほうでは僕にもっと危機感を持たせたかったのかもしれないが、提出するアイテムにさほどの価値がないのでは無理な話だ。命を賭けろとでも言われたらそのときは……いや、さほど変わりはないかもしれない。
 失って困るものは目に見える形をしていない。ただその切れ端が形あるものの中に含まれることはあるだろう。彼がそれに気づいてくれるといい。いや、気づかないでいてほしい。どちらも僕の本当の気持ちで、僕は常に引き裂かれている。ばらばらで、まとまらない。その状態になれてしまった。
 彼が僕から奪い取りたいものはなんなのか。断片ならばすでにいくつも渡している。もっと大きくてはっきりしたものを望まれているなら不可能だと言わねばならない。僕にははじめから断片しかない。
 ひとつため息をついて部室に向かった。古びた旧棟の階段を上り、廊下へ踏み出したところで一瞬足を止めた。
 翻る長い黒髪。その印象が鮮やかに網膜に残った。
 わずかに軋む音を立てて閉じた扉は文芸部室のものだった。
 北高の制服を着た髪の長い誰かが文芸部室に入っていった。それだけなら特別なできごととは言えないのかもしれない。だがありふれたことでもなかった。そもそもあの部屋に未知の人物が訪れる可能性は非常に低い。ならば既知の人物かといえば、たとえば鶴屋さんは長い髪の持ち主ではあるが、僕の直感は違うと告げている。
 しかしどこかで見たことのある人物だったという気がする。決して親しくはない。直接話したことがあるかもあやしい。
 僕の脳内データベースはわずかな情報から対象を絞り込み、疑わしい名前をいくつか抽出したが、その中で最も不穏でなおかつ可能性の低い名前がひどく気にかかり、勝手に僕の背をふるわせた。
 朝倉涼子。
 得体の知れない焦りに突き動かされて部室までの距離を詰め、いつもの警戒を忘れてノックもなしに扉を開けた。
 音もなく顔を上げた長門さんと目があった。
「どうしたの古泉くん、そんなに急がなくてもキョンは逃げないわよ」
 のどかな涼宮さんの声で我に返った。部屋にはすでにメイド服に着替えた朝比奈さんと、チェス盤の準備をすませた彼の姿があった。朝倉涼子の姿などはない。もちろんない。それ以外の部外者の顔も見あたらない。
 では僕が見たものは、長い髪は、閉じていく扉はなんだったのだろうか。すべてが幻か。それともこれこそが長門さんの警告していた異変なのだろうか。
 長門さんの静かな瞳はなんの答えもくれなかった。しかし彼女が動かないということは、まだ大きな問題は起きていないということと同義でもある。
 だから僕は極力おだやかに表情を保ち、やんわりと笑ってみせた。
「すみません、少々気が急きまして」
「まあいいから座れ」
 彼はいつもと変わらぬ怠惰な姿勢で顎をしゃくってみせたが、その目つきを見れば何かに感づいていることはわかった。あとで説明しますという意味を込めて視線を返し、僕は彼の正面の席についた。
 さて、Iをかけての戦いだ。
 本気で真剣に取り組もう。そういうつもりはもちろんあった。あったのだがしかし、この日の僕はどうしても盤面に集中できなかった。ちらちらと瞼の裏に踊る長い髪の幻が僕の思考を阻害した。
 朝倉涼子。直接接触したことのないTFEI端末のひとり。問題行動を起こしたため処分されたと聞いている。その際、彼の心に深い傷を残したのだとも。
 公的にはカナダへ行ったことになっている朝倉涼子が戻ってきたら、涼宮さんは驚き、そして喜ぶかもしれない。主にダメージを受けるのは彼だろう。たとえ幻であろうと接触は避けてもらいたいところだが。
 僕に何か打てる手はあるのだろうか。つらつらとそんなことを考えながらビショップを手に取った。
 そのときだった。
 とん、と盤面に置かれた指先があった。
 ひとつの升目を正確に指し示しただけで離れていく。いつのまにかまったく気配のないままに、長門さんがすぐ近くに立っていた。僕ばかりでなく彼もまた茫然としていた。
「おい長門」
「あなたが朝比奈みくるに頼んだのと同じこと」
 淡々とした声でそれだけを言うと長門さんは僕らに背を向けた。再びパイプ椅子に腰かけ本を手に取るともう目を上げもしない。ゲームの結果などもうわかっているとでもいうように。
 僕は手の中のビショップと長門さんが指さした升目を見比べた。そこに置けと言われたのだとはわかっていたが、そうするとどうなるというのか、ぱっと見ただけではわからなかった。
 離れた場所でパソコンをいじっていた涼宮さんまでもが椅子を引き寄せてきて盤面に目を凝らしている。朝比奈さんはおっかなびっくりなどんぐりまなこで両手を組み合わせているだけだが。
 これはもう、指示を裏切ることはできない。
 僕はちらりと長門さんの横顔に目をやり、ビショップを置いた。そこから先の展開は驚くべきものだった。僕にはほとんど考えたり迷ったりする余地がなかった。彼が駒を動かすと、僕の駒はそれに引きずられる形で動かされ、ほぼ一意に位置が決まった。そんなことの連続で、何かに操られているかのように、そこから十五手目に僕の勝利は決まった。
「有希、すごいじゃない!」
 涼宮さんの賞賛はまっすぐ長門さんに向かったがこれは当然だった。僕の知力はまったく盤面に反映されていない。長門さんの手のひらの上で転がされていただけだ。
 苦々しく思うべきなのかもしれないが、これは必要なことなのだったのだろうと感じた。警告はすでにされていたのだから、それに応えられなかった僕が悪い。
 ただ事情のわかっていない彼が面白くなさそうな顔をしているのが少しおかしい。僕に勝ちを譲りたがっているようなのに、長門さんの力を借りるのは駄目なのか。たとえどんな理由があろうとも、完膚なきまでに叩きのめされるのは気持ちのいいものではないだろうが。
「不服ですか」
「別に」
 ふてくされた顔で投げ捨てるように言うのが楽しくて、僕はよけいなことまでささやいた。
「あなたのIは僕のものですよ」
「うるさい。そのまえにHだ」
 ぐいと突き出された手を僕は握った。彼がぎょっとして身を引こうとするのでさらに力を込めた。
「なんだよ」
「僕のHand Powerを感じていただこうかと思いまして」
「それは普通、額の前とかに手をかざすもんじゃないのか」
「手ならなんでもいいんじゃないですか?」
 適当なことを言って笑った。握りしめた手はすぐにふりはらわれたが、かわいてあたたかな彼の手の感触は長く残った。主に僕の心の中に。

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[20120101]