Your Eyes Only 9
行きましょうと促され、追い立てられるように長門のマンションを出た。
古泉はやけに足早で、その横顔には緊張がみなぎっている。
「なんだってそんなに急ぐんだ。ここから北高まで一時間はかからんぞ」
どんなにゆっくり歩いても、せいぜい三十分といったところだろう。しかし古泉は俺にちらりと目を向けると、足取りを緩めることなく応えた。
「さきほど長門さんが気になることを言っていましたね。想定外の妨害がどうとか」
「……それは俺も気になってた」
自然に苦い顔になる。妨害。その言葉から想像されるのは俺の場合はただひとつ、いやただひとりと言ったほうがいいだろうか。
朝倉涼子。
あいつにだったら長門が用意したプログラムに手を加えることも可能だったに違いない。そもそもが同じ、情報統合思念体に作られた存在として、相手のことを熟知しているのは当然だ。その思考形態も、技術も、隠された思いも。
長門は朝倉を甦らせることによって、本当は緊急脱出プログラムの失敗を予期し、また望んでいたんじゃないのか。
突風のようにそんな疑念が頭の中をよぎったが、俺はかぶりをふってそれを払った。
長門が犯人だとはまだ限らない。……と言うのはいまさらのような気もしているが、たとえ長門の真の望みがなんだったとしても、俺は予備のプログラムまで周到に配備していた長門の気持ちをもう疑いはしない。
俺はもとの世界へ帰る。
「朝倉さんと言いましたか」
古泉の静かなつぶやきに俺のさまよいだしていた思考は引き戻された。
「もしも事前に手を加えられるものならば、第二の緊急脱出プログラムが再び誤作動を起こすように細工をすることも可能だったかもしれませんが、今回は彼女にもその時間がなかったのではないかと推察します」
「つまり?」
「もっと直接的な方法で妨害に出てくる可能性がある、ということです」
ぞっとした。以前にごついアーミーナイフで俺を殺そうとしたこともある奴だ。今度はどんな手段に出てくるものやら。
俺たちはもうマンションを出てしまっている。今の朝倉にどれほどの能力があるのか知れないが、瞬時に長門の異変を悟ることができるのならば、すでに姿を現していてもおかしくはなかった。逆に言えば、朝倉は今も何も気づかず、つまりは妨害工作などすることもなく、平和に土曜の午後をすごしている可能性もある。
「……どっちなんだろうな」
「僕たちの先回りをして学校に向かっているとも考えられます」
「考えるだけ無駄か」
周囲を見回し、とりあえず不審な人影が近くにないことを確かめてから、ため息をついた。古泉はそんな俺を見て、やわらかく微笑んだ。
「あなたは僕が守ります」
一瞬、俺は返す言葉に詰まった。
「……なあ古泉、なんで」
おまえは俺にそんな親切にする義理なんかないだろ。ハルヒに言われたからって理由だったら愚直すぎるぞ。
「涼宮さんに頼まれたからというばかりではなくて」
一緒に並んで通学路の急な坂道を上る。通い慣れた道なのに、俺も古泉も今日は制服ではなく、時間は朝ではなく、目的もまた普通じゃない。だからだろう、ひどくふしぎな感じがした。ここにこうして古泉とふたりきりでいるということが、ありえないほど異常で、そして同時にそうでなければならないほどに自然であるかのような混乱した認識を俺にもたらした。この古泉は俺のよく知る古泉ではないのだから、なおさらだ。
古泉はじっと俺の目を見て、一度止めた言葉のつづきを口にした。
「……あなたがそんな目で僕を見るから、僕は」
僕は?
俺の足は自然に止まってしまった。古泉もそれにつられて立ち止まる。冬枯れた景色の中、すでに周囲は夕暮れに向けて全体的に淡い灰色の色調を帯びている。まだ満月は昇ってもいない。
俺はどんな目で古泉を見ているんだ?
古泉はふと苦笑した。嫌味なほどさまになる仕草で肩をすくめた。
「少し、混乱してしまうのでしょう。さあ、もう行かなくては」
そう言って差し出された手を俺はとまどいとともに見つめた。古泉の真意がわからなかった。なのにためらいながらも俺はその手を取り、ほんのしばらくのあいだだけだが、古泉と手をつないで歩いた。
まったく嫌になるほど急な坂道を、それから俺たちは黙々と上った。
校舎が見えてきたときには少しほっとした。朝倉の姿は影も形も見えないし、あいつが俺の帰還を妨害しにやってくるなんて杞憂にすぎなかったんだとも思った。そうだ、冷静に考えてみれば、朝倉がこだわっているのは長門を守ることだけで、むしろ俺が長門の前から消えることは朝倉にとっては望ましいことなんじゃないのか。
そう考えることで俺はすっかり気が楽になり、多分、油断したのだろう。実に愚かだったとは、すぐあとに知ることになるのだが、俺は生来楽天的にできているらしいからもうこれは仕方がないとあきらめるしかない。
今日は体操服の用意なんかないうえに、俺自身も私服だったため、北高潜入はハードルが高いかといったら案外そうでもなかった。授業のない土曜日でも、部活があるから校門は開いている。中にはまあ、ジャージ姿で出入りする横着者もいれば、遊びに来る私服の卒業生だっているわけさ。
そんなこんなで、まわりに制服姿の生徒がうじゃうじゃいない分、逆に特別目立ちもせずに、俺と古泉は校舎に入った。正面玄関で上履きに履き替える。古泉の分は前回同様、谷口のでいいだろう。
「おいこれ」
古泉に上履きを投げてやろうとふりかえった瞬間に、それは起こった。
「危ない!」
こういう場合に叫ぶには、あまりにも定番すぎる声を上げ、古泉が俺を突き飛ばした。靴箱が並ぶ薄暗い玄関のすのこに俺は倒れる。思い切り腰を打ったから少しばかりでなく痛かった。
「残念」
ぎゅっと目を閉じていた俺の耳に、鋭く飛び込んできたのは今一番聞きたくなかった女の声だ。
「楽に死なせてあげようと思ったのに」
「朝、倉……!」
必死でふり仰いだその場には、制服姿の朝倉涼子が完璧な微笑を浮かべて立っていた。その手に握られているナイフに俺は見覚えがある。ああ、嫌というほどな。
「この方がそうですか」
なめらかな動きで、古泉が俺と朝倉とのあいだに身体を割り込ませた。俺の位置からは背中しか見えないが、その声は怖いくらいに冷えている。
「おまえ…格闘技の素養とかあんのか」
「いえ、まったく」
「……おい!」
ちらりと古泉は俺に笑みを含んだ視線を投げた。
「なんとかしますよ」
そんなたやすく、なんとかできる相手じゃないだろうが!
「朝倉、どう考えても今のおまえに俺を襲う理由はないぞ」
こうなれば説得だ。前のときはまったく効果がなかったが、今の朝倉になら多少は通じるかもしれん。
「理由はあるわ。あなたは彼女を傷つける。それだけで十分排除する理由になるでしょう?」
「俺をこのまま行かせればいい。そうしたら俺はこの世界からいなくなり、もう長門を傷つけることはない」
「今の『あなた』がいなくなっても、もともとこの世界にいた『あなた』は残るじゃない。それじゃあ意味がないと思わない?」
「おまえ、こんなことして、殺人者として警察に捕まったらこれからの人生狂っちまうぞ、刑務所行きになったら長門のそばにもいられないだろ」
「捕まらなければいいじゃない」
だめだ。説得に応じる気が朝倉にはまるでない。
「無駄な話はおしまい」
とびっきりの笑顔を見せると、朝倉は一拍の間もおかずに地面を蹴った。俺は思わず目を閉じた。自分が刺されることよりも、古泉の血を見てしまうことのほうが恐ろしかった。
だが。
荒々しくすのこを踏みしめる音がする。どんと重いものが靴箱にぶつかり、また離れ、衝撃に地面がゆれる。ふたりぶんの激しい息づかい、そして意外にも朝倉のかすかな苦鳴。
何が起こっているんだ。
おそるおそる開いた俺の目に飛び込んできたのは、古泉が朝倉の両手を戒め、ぎりぎりと締め上げているという意外なことこの上ない光景だった。……格闘技の素養はないって言ってたよな?
手首を強く掴まれて、朝倉の顔は苦痛に歪んでいる。
俺はそのとき初めて気づいた。今の朝倉には特別な能力なんか何もないんだ。空間を歪めることも、物質の構成を変化させることも、人間には不可能な動きでナイフを繰り出すこともできない。
肉体的にはか弱いただの少女にすぎない。
それだから古泉の腕の力に逆らえない。運動能力でいったらどちらも優秀な部類に入るのだろうが、男性と女性では否応もなく筋力に差が生じる。
しかし朝倉はその事実を認めようとせず、すごい目をして俺を睨んだ。視線だけで殺されそうだった。
そのときだ。ふと古泉が朝倉の耳もとに唇を寄せ、何事かをささやいた。
朝倉の視線は今度はまっすぐに古泉を向いた。茫然としている、と表現するのがふさわしい朝倉の顔なんて初めて見た。
「……どうして?」
ふるえる唇から、聞いたことがないような細い声がこぼれ、力を失ったその手からはナイフが落ちた。
床で重い音を立てたそれを俺は拾った。
ジ・エンドだ。
朝倉がかくんとその場に膝をつくのを俺はどこか痛ましい思いで見守った。古泉はひどく丁寧な手つきで朝倉の手首を開放すると、まるで何事もなかったような涼しい顔でこう言った。
「行きましょう」
朝倉は俺たちが立ち去るあいだ、顔を上げもしなかった。
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[20071203]