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Your Eyes Only

 一歩一歩足を動かすごとに、地面に身体がめり込みそうなくらいに気分は低調だったが、それでも俺は果てしなくつづくと思える急坂を黙々と上った。
 ほかにどうすることができただろうか。俺には現状を打破する手立ては何ひとつなく、このままこの俺にとっての異世界で一生を送らなければならない公算が高い。ん、異世界? てことはなんだ、俺はこれで立派に異世界人の一員に仲間入りを果たしたことになるのか。おいあっちの世界のハルヒ、だったら今こそ俺を異世界人の代表として呼び戻してくれ。どんな状況でも文句は言わんぞ。蝕と同時に空中に吸い上げられて死にそうな目にあいながら道端で行き倒れるのでもかまわんし、公衆便所の排水と一緒に流された挙句に溺れかけるオプションつきでもいい。
 だがそう都合よくはいかんのだろうな。古泉仮説のうちパラレルワールド説が正しければ、ここではない別の時空に、神様然とした特別な力を持ったハルヒが存在し、傍若無人に今も暴れているんだろうが、もしも時空改変説が正しいならば。
 ここにいる、はた迷惑なだけで特殊な力など一切持たないハルヒがこの世で唯一のハルヒであって、どれだけ頼み込もうが縋ろうが、俺をもとの世界へ戻してくれることなんかない。
 もしも時空改変説が正しいならば。
 そのキーワードは俺の脳裏にこびりつき、昨晩古泉が指摘した事実を思い起こさせずにはいられなかった。
 そうだ、確かに俺はあのときさほど迷いもせずにエンターキーを押した。俺はもとの世界へ戻りたかった。ハルヒを筆頭にわけのわからん連中ばかりが集まっている、あのSOS団に戻りたかったんだ。
 それが俺が今いるこの世界を消し去ることとイコールだとは考えもしなかった。
 しかし俺は、もしそこに考えが至っていたとしても、やはり同じ選択をしたかもしれない。
 俺は自分勝手な奴だ。そこを非難されると反論の余地もない。そのとおりだ、俺は自分がよければそれでいいのだ。一見もとの世界よりずっとまともなここより、どんなにめちゃくちゃでもしんどい思いばかりをさせられても、あちらの世界がよかったのだ。
 俺は最低だな。
 暗く自嘲しながら俺は足を運んだ。くそ、古泉め。ただでさえへこたれている俺にさらに重量級の圧力をかけてくれやがって。あれはわざとだろう。おまえは俺に腹を立てていたんだろう。なんてやさしくない奴だ。
 やさしくないのは、おまえがハルヒに恋をしているからか?
 ようやく校門が見えてきた。冬だというのに汗だくになりながら最後の坂を上り詰めていると、突然背中を容赦のない力で叩かれた。
「よっ、キョン! 昨日は無事に涼宮には会えたのか?」
 谷口だった。病み上がりのくせにずいぶん元気じゃないか。今日はもうマスクもしていない。
「あー……、まあ、会えたと言えば会えたがな」
 谷口はハルヒの居所を教えてくれた功労者だが、その後に起きたさまざまなできごとについて思いをはせると口も重くなろうというものだ。谷口はそんな俺の顔をぐるっと回って覗き込み、心底びびった声を上げた。
「おっまえひどい顔だなあ。涼宮にひどい目に合わされたのか、だから言っただろうが、イカレた女だって」
「俺がどんな顔をしてるって?」
「そうだなあ、まあ言ってみれば」
 谷口は腕組みをして、
「世界の終わりがついに来ちまったって顔だな」
 なるほど谷口、おまえの観察眼は意外に確かだぞ。
 そうこうしているうちに俺たちは校舎にたどりついた。鞄は昨日教室に置いてきたから俺は手ぶらで、その空いた手が奇妙に落ち着かない感覚を俺に与えていた。教室の自分の席まで行くと、朝倉はもう登校しており、背筋をのばして椅子に座っていた。俺を見てにこりと笑う。
「おはよう」
「……ああ」
 悪い。いくら今のおまえは普通の高校生なんだとわかっていても、一度殺意を向けられたことのある相手と和気あいあいと話せるほどに、俺は人間できちゃいないんだ。いくらおまえの作ったおでんが超プロフェッショナルにいい味を出していてもな。
 俺はテンション低く腰を下ろした。しかしなんだな、もうこれで四日目になるが、朝倉に背中を向けて座るってのは、それだけで戦慄の体験だ。いつ背中からぶすりとやられるかと気が気じゃない。ここの朝倉はそんなことをしないと必死に自分に言い聞かせるだけで俺はもうへとへとだ。
「ねえあなた、昨日、文芸部の部室へ何しに行ったの」
 ささやかれた声にぞわりとし、激しく俺はうしろの席をふりかえった。
 朝倉は微笑んでいた。優等生的な隙のない笑顔だが、目だけはまったく笑っていない。肝が冷えた。
「文芸部に入部しようか迷ってるって言っただろう。それで入部届けを……」
「つき返した、んでしょう?」
「そういうわけじゃないが」
 俺は口ごもった。そんなつもりで白紙を返したのではなかったが、長門からしてみればそういうことになるのかもしれん。昨日は緊急脱出プログラムをめぐる一連のできごとのせいで、俺の精神はがたがたになっちまっていたから、何もフォローができなかったんだ。
 すまん長門。わけもわからずあの場につきあわされたおまえは、あのとき何を思っていただろう。
 しかし朝倉、なぜおまえがそれを知っている。
「ふふ、わたしは長門さんのことならなんでも知ってるの。わかるのよ」
 気持ち悪いな。こいつ長門のストーカーなんじゃあるまいな。
 口には出さなかったはずの俺の思考をまるで正確に読んだかのように、そのときすっと朝倉の目は細められた。
「長門さんを傷つける人はわたしが許さないって言ったでしょう。わたしは本気なの。だってわたしはそのために作られたんだもの」
 とっさに声が出なかった。それほどに朝倉の声には、その眼光には、抵抗を許さない凛とみなぎる気迫があった。
 だが朝倉は今なんと言った。

 ――わたしはそのために作られた

「先生、来たわよ」
 余裕たっぷりな朝倉の声に、勢いよく立ち上がりかけた俺の動きは封じられた。爆発しそうになっている胸の叫びをなだめ、ぎこちなく前を向く。落ち着け、考えろ、考えろ。これは重大なヒントじゃないか。
 結局最初の授業のあいだ、俺は教師の話をひとかけらも聞いちゃいなかった。なにしろなんの授業だったかも覚えてないくらいだからな、完璧だ。それはともかく授業終了のチャイムが鳴るのと同時に、俺はふりかえって朝倉の腕を掴んだ。
「ちょっと顔貸せ」
 朝倉は倣岸に顎をそらして俺を見つめたが、意外にも素直に立ち上がった。谷口や国木田や、ほかのクラスメイトたちの視線が痛かったが、もはやそんなことを気にしている場合じゃなかった。どうせここ数日で俺はすっかり頭がおかしくなったと思われている、いまさら奇行の履歴がひとつ増えたところでかまいやしない。
 休み時間なんてそんな長いものじゃない。俺はなかば駆け足で人の来ない屋上手前の階段のところまで朝倉を引っ張っていった。ようやくひとつ息をつき、ふりかえると朝倉は息ひとつ乱さずに長い髪を払った。木炭のような深みのある黒だ。だが同じ真っ黒で長いなら俺はハルヒの髪のほうが好きだな。ああ、ずっと好きだ。
「こういうのやめてもらえるかしら。変な誤解を受けそうで困るわ」
「そんなことはどうでもいい!」
 涼しい声を出す朝倉に俺は迫った。胸ぐらを掴みあげようとして、さすがに女相手にそれはまずいと理性のストップがかかる。仕方なく、コンクリートの壁に手をついて、その狭い隙間に朝倉を閉じ込めた。
「おまえどこまで知ってる、おまえをこの世界に復活させたのは誰なんだ、ハルヒか、それとも……」
「なんの話かしら」
「さっき言っただろう、おまえは長門を守るために作られたって」
「わたし、そんなことを言ったかしら」
「ごまかすな」
 低い、脅すような声が出た。そのまま朝倉と近い距離で見つめ合う。いや、睨み合っていると表現するのが正しいだろう。しかし朝倉の目には怯えや怒りや、その種の感情の色は何もなく、むしろその欠如こそが非人間的な異様さをかもしだしていた。
「そんなに必死になって、ばかみたい」
 やがて朝倉の唇は冷淡に残酷な言葉をつむいだ。
「誰がこの世界を作ったかなんて、どうだっていいことじゃないの。あなたはここにいる。わたしもここにいる。楽しめばいいのよ。新しい価値を見つければいいのよ。過去にこだわる意味なんてあるの?」
 朝倉は本気だった。どこまでも本気でそう言っていた。俺の腕の力は抜けた。どれだけ問い詰めようと、泣いて頼もうと、朝倉が俺に協力などするはずがないとわかったからだった。朝倉は俺を切り刻む視線とともに微笑んだ。
「あなた、これ以上長門さんに近づくのをやめてくれないかしら。あなたと一緒にいると、長門さんはつらい思いばかりすることになりそうだもの」
 悠然と、自信に満ちた肉食獣の足取りで、朝倉は俺から離れた。ひとりで階段を下りていく途中でふりかえる。完璧な勝者の笑みがそこには浮かんでいた。
「そうじゃないと、あなた、死ぬわよ」
 俺はもう朝倉に何を言う気力もなく、その背中が遠ざかっていくのを見送った。そのうちチャイムが鳴るのが聞こえたが、授業に戻る気にはなれなかった。
 意気消沈のあまりってわけじゃない。これといって革新的な情報は得られなかったが、俺はひとつ手がかりを掴んだ気がしていた。この世界はどこまでも異常性を排除した、あくまで平凡な状態を装っているがそうじゃない。朝倉は自分が普通の人間ではないことを知っている。彼女を作った誰かがどこかに存在している。
 それは俺のこの閉塞的な状況を打破する鍵にはならないか。
 俺は考えに考え、考えつづけた。いいかげん腹が減り、昼休みには教室へ戻ったが、午後の授業もまったく耳には入らなかった。
 放課後、自由な時間を手に入れた俺は、意を決して文芸部の部室へ向かった。

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[20070812]