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Your Eyes Only

 途中、旧館へ移動する途中の廊下で朝比奈さんとばったり会った。その予想外の遭遇に思わず足を止めてしまったのは俺ばかりではなかった。
 朝比奈さんはこの日、鶴屋さんという最強のボディーガードと一緒ではなく、その内心の怯えは説明なぞされるまでもなく明らかだった。
 すみません、朝比奈さん。あなたにあれだけ迷惑をかけておきながら、昨日は結局なんの説明もできませんでしたね。
 ですが俺にもまだ、何をどう言っていいのかわからないんです。
 そっと挨拶だけをして隣を通りすぎようとしたが、そのとき俺の耳は思わぬ声を拾い上げた。
「あの……」
 かぼそく、はかなく消え入る寸前の雪のひとひらにも似た朝比奈さんの声だった。
 驚いてふりかえると、彼女はありったけの勇気をふり絞ったという表情でこちらを見ていた。胸元で握りしめた手に力が入りすぎている。
「元気出して、くださいね」
 ためらいがちな響きではあったが、はっきりと紡がれたその言葉に、俺は強く胸を打たれた。まったく事情がわからなくても、自分こそが不利益を被る可能性があっても、それでも他人を気づかうことのできる彼女は強くやさしい人だった。
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げると、そんな俺に朝比奈さんはあたたかく微笑んだ。何日ぶりかで目にしたそれに勇気をもらった気持ちになって、俺は足早に廊下を立ち去った。
 それからおなじみの旧館三階へと上り、扉の前に立つと俺はひとつ深呼吸をした。
 習慣に従いノックをしたが、部屋の中から返事はなかった。
 無人であるなら鍵がかかっているはずなのだが、試してみるとノブは回った。用心深く扉を薄く開いてみたが、確かに奥に人気はない。
 無用心だな、泥棒に入られるぞとつぶやきながら、まさに泥棒じみた一番の不審人物の俺は、易々と部屋に侵入を果たした。
 半年以上も通って飽き飽きするほど見慣れた部屋、のはずだが、そこにはSOS団のたまり場として使われていたときの雑然とした趣はない。備品として置かれているものの分量も質もまるで違う。
 五月に最初にこの部屋に足を踏み入れたとき、すなわち長門と初めて対面したあの日とまるで変わらぬ殺風景さで、旧館三階のその部屋は冷えて静まりかえっていた。
 誰もいないならいないで、俺にはここでやっておきたいことがある。
 長机の上に置かれた旧式のパソコンの前に俺は立った。昨晩この前で醜態をさらしたことは鮮明に覚えていたが、その忌まわしい思い出を乗り越えてでも、確認しておかねばなるまい。
 パソコンの電源を入れ、起動を待った。長門からの超越的メッセージが表示されるときとは異なる、ごくありふれた起動画面がディスプレイに浮かび上がる。パスワードによるロックはかかっていない。パイプ椅子を引き寄せ、俺は思い当たる限りのフォルダを調べた。
 ない。
 怪しいファイルやプログラムはどこにも見当たらない。
 緊急脱出プログラムとやらの痕跡がどこかに残ってはいないかと、はかなくも期待していたのだったが、やはりそんな不手際を長門がするはずがない。
 だが、それを言うなら長門の用意したプログラムがうまく動作せず、不発に終わるというそのこと自体がありえない。
 いったい何が起こっているんだ。
 頭を抱えたくなる自分を叱咤し、パソコンの電源を落とすと、俺は次に本棚の前に立った。例の花の栞が挟まっていた本を再度手に取る。次なる指令がここで見つかればいいのにと願っていたが、そうそううまく話は運ばない。
「くそっ」
 拳を棚に叩きつけたちょうどそのとき、軋んだ音を立てて古びた木製の扉が開いた。
 その人物は、思わぬ訪問者が自分より先にいたことに、そしてさらには突然響いた物音に、驚いた目をして立ちすくんでいる。
 長門だった。
「よう、邪魔してるぜ」
 ほかにどう挨拶していいかわからず、そう言った。
「……そう」
 長い沈黙ののちに、無難なひとことを選び取った長門の自制心は褒められていいものだろう。昨日はあまりにいろいろなことがあり、さらには唯一事態を理解していた俺が茫然自失に陥っていたせいで、長門に対してなんの弁明もできていなかった。今の長門にとって昨日のあれは、常軌を逸したパラノイアの暴走にしか見えなかったろう。
 俺なんかは完全に狂人扱いされてもおかしくはない立場だ。なのに長門はその俺と、広くもない部屋でふたりきりになるというリスクをあえて冒した。多少ぎこちなくはあったが、胸元に本を抱えて、うつむきがちに歩み入ってくる。パソコンの前の椅子にぽてんと座る。
 眼鏡の奥の気弱な瞳は、こちらが気になる様子で持ち上げられて、空中で俺の視線とかち合うと、慌ててまた下を向いた。
 やはり昨日のことが長門も納得できていないのだ。
 こっそりため息をついた。
 俺に説明責任はあると思う。もとの世界へ帰ることがもしも不可能であるのなら、この世界に生きていかなければならない俺は、長門の精神衛生のためにも、俺自身の社会的地位を守るためにも、なんとか先日のできごとに辻褄の合った説明をつけなければならない。
 だがその前に、俺は長門にも説明を求めたいことがあるのだ。
「……ジョン・スミス」
 意外にも、俺が口を開くより先に、長門がぽつりとつぶやいた。しかしまだ視線は上げない。
「あなたのこと?」
「……まあな」
 認める以外にどうすることができただろう。微妙に恥ずかしい名前だが、それを最初に名乗ったのは俺なのだから、恨む相手は自分自身であるべきだ。
 長門はそれを尋ねたきり、また黙った。きっとその小さな頭の中では様々な考えが乱れ飛んでいるのだろうが、表情には出てこない。ズバッと訊きたいことを訊いちまえば楽になれるのに、こいつの性格ではそれは難しいのだろう。
「昨日のあれは…話してもわかってもらえるか自信がないが」
 せめてもの良心に従い、俺はぽつぽつと話をした。
「俺はこの世界の人間じゃないんだ。一昨日おまえに見せた栞があっただろう、鍵を集めろって書いてあった。その鍵というのがおまえを含めたあの場にいた五人のことで、あのとき緊急脱出プログラムが成功していれば、俺はもといた世界に帰れたんだ。……多分な」
 長門の表情に動きは見えない。もともと感情表現に乏しい奴だから、腹の底で何を思われていてもわからないのだが、今はまだ明確な肯定も否定も難しく、態度を決めかねているというのが正解のように思えた。
「少なくとも、よってたかっておまえを騙そうとしたわけじゃない。俺は本気だった。それだけでも信じてくれないか」
「……理解できない」
 やがてつぶやかれた長門のひとことには、微細な感情のゆれが含まれていた。
「……だよな」
 俺は苦笑する。自分にすら正しく理解できているとは言い難いことを他人に受け入れてもらおうというほうが無理だ。
 しかしそのとき長門はふいと顔を上げ、つや消しブラックの瞳をまっすぐ俺に向けた。
「だけど、あのときのあなたは本当にショックを受けていた」
 俺たちはしばし無言で見つめ合った。長門は俺を狂人扱いしたりしない。あるがままに受け入れようとしてくれている。
 図書館でカードを作ってもらったという偽物の記憶ひとつの報酬にしてはずいぶん過大な気がしたが、俺は今それをありがたいと思っておくべきだろう。
 俺は深く息をついて、本題に入ることにした。
「今はわからなくていい。俺の頭がおかしくなったと思って、逃げないでいてくれるだけで十分だ。だが長門、俺はいくつかおまえに尋ねたいことがある。いいか?」
 長門はわずかな瞬きで困惑を表現すると、小さな声で応えた。
「なに」
「朝倉とおまえはどういう関係だ? 同じマンションの住人で、ときどき差し入れをしてもらうってのはもうわかった。それはいつからのことだ? そもそも朝倉と知り合ったのは何年前で、どんなきっかけだったのか、おまえは記憶しているか?」
 矢継ぎ早に尋ねすぎて、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
 だが俺の狙いははっきりしている。今のこの閉塞的な状況を打破する鍵は朝倉にある。そうとしか思えない。
 この平々凡々を装った世界に投下された一本の針が朝倉だ。あいつ自身が語ることを拒否しても、その言動が否応もなくひとつの事実を浮かび上がらせている。
 朝倉がこの世界に存在している理由、それが長門を守ることだとしたら、朝倉を復活させた何者かの目的もまた同じところにあると見ていいだろう。
 情報統合思念体に作られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース。そんな長ったらしい肩書きを失った長門は、何の特別な能力も持たない非力な少女にすぎない。だからこそ、その長門を守るためには、朝倉のようなストーカーじみたボディーガードを貼りつけておく必要があったのかもしれない。
 だがその何者かとやらは、なぜ長門を守らねばならないのか。同じように肩書きも能力もなくしているハルヒや古泉や朝比奈さんのまわりには、長門にとっての朝倉に相当するような異質な誰かは存在しない。……いや、よくは知らんが、今わかっている限りではいないみたいだ。
 つまり長門は特別だってことだ。それがどういう意味での特別なのか、俺は知る必要がある。
 俺が午前のうちから考えに考えてたどり着いた結論がこれだった。
「なぜ朝倉はおまえを守ろうとするんだ」
 それとも守っているというのは見せかけで、実は監視しているのだろうか。長門が本来の能力を取り戻し、反撃を始めたりしないように。それとも長門は無意識のうちになんらかの重大な秘密を握っていて、朝倉はそれが外部に(俺に?)漏れることを防ぐのが役割だとか。……可能性なんかありすぎて、絞りきれない。
 朝倉の協力が望めない以上、俺の疑問に答えを与えてくれるのは長門以外にありえない。
「三年…、もう少しで四年になる」
 そのとき、ひそりとささやかれた声は静かすぎて、俺は危うく聞き逃すところだった。
「家が近くて、歳が同じだったから、知り合うのはふしぎではない。……なぜ?」
 その黒目がちの大きな目が、不安を湛えて俺を見ていた。
 少し言葉に詰まった。今の長門が朝倉をどう思っているのか、それを考慮するのを忘れていた。おでんを差し入れされたときの態度を見ていたら、手放しに好意を抱いているというふうでもないと思ったのだが、そんなのは部外者でしかない俺に判断できることじゃない。
 四年間。
 それは決して短いとは言えない時間だ。この世界じゃどうだかわからないが、少なくとも俺のいたあの世界では、その数字は特別な意味を持っている。
 ハルヒが情報爆発だかなんだかを引き起こし、情報統合思念体に目をつけられたのが今からほぼ四年前。春先に話を聞いたときに『三年』と言われたからには、それから半年以上たった今は、四年に近くなっているのが道理だ。そして長門や朝倉やその仲間たちがこの地上に送り込まれたと思われるのがその直後だ。
 七夕の日に過去に戻って遭遇した、三年前の長門を覚えている。広々としたマンションの一室に、まったくの無表情で佇んでいた長門。あのときは考えもしなかったが、同じマンションのどこかには朝倉も存在していたはずだった。
 そのふたりのあいだに果たしていかなる交流があったのか、それともまったく何もなかったのか、俺には想像もできない。
「……もし、朝倉がおまえのそばにいるのは何か特殊な目的があってのことだ、と言ったらどうする?」
 ひどいことを尋ねていると思ったが、黙っておくこともできなかった。朝倉が長門のそばにいるのがいいことなのか否か、俺には判断できない。その目的がもしも邪悪なものならば、俺は朝倉の魔の手から長門を守らなければならない。そんなことが可能だとしての話だが。
 長門はわずかに目を見開いた。薄くその唇が開いたが、声をなくしてしまったかのように、そこからはなんの言葉もこぼれてくることはなかった。
 ひどく繊細なガラスの細工物のようなその表情を見ているうちに、俺はふと気がついた。
 この長門は俺の知っている長門とは別人だ。
 肩書きや能力や記憶を失っているというだけじゃなく、人格そのものがずいぶん違ってしまっている。ハルヒや古泉や朝比奈さんは、少なくともその内面の特徴については俺の知る姿そのままなのに。
 なぜだ。
 新たな混乱を覚えながら俺は長門を凝視した。
 誰がどんな目的で長門をこんなふうにした?

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[20071126]