Your Eyes Only
結局、長門からそれ以上の有用な情報を引き出すことはできなかった。
長門が言うには朝倉とは旧い知り合いで、これまで特に変わったそぶりはなかったらしい。また朝倉がやけに長門にかまうのは、委員長気質の朝倉が内気な長門を見るに見かねてという以外の理由は考えられないとか。
その説明自体に妙な点はなかったが、長門の存在が改変されていることを思えば、いくらでも都合のいい記憶を植えつけておくことは可能なのだ。
つまり長門をいくら問い詰めても、この世界を改変した誰かにとって不利な情報など出てくるわけがないということだ。
俺はすっかり憂鬱な気持ちになった。
朝倉とのやりとりでせっかく掴んだと思った一本の糸が、またしてもふっつり切れてしまった。俺はもうどうしていいのかわからない。
これ以上長門を困らせても得るものはないとあきらめると、とりあえず文芸部室を出て俺はひとり陰鬱に坂道を下った。
あーわからん。本格的に途方に暮れてきたぞ。そもそも俺にはこういうややこしいことを考えるための頭脳は備えつけられちゃおらんのだ。それなのに、ない知恵をふりしぼって朝から悩みつづけてたせいで、俺の頭はオーバーヒート寸前だ。こういうときこそあのむやみと解説スキルの高い、そのくせ無駄話が多くてまわりくどくて、俺を苛々させずにはいられないあいつ、そうあいつこそが知恵を貸してくれりゃいいのに。
俺はその整った貌をまざまざと思い浮かべ、重い重いため息をついた。
そいつにはこれから会う予定がある。正確には俺が会うのはハルヒで、そいつ――古泉はそのおまけだ。そう考えるとちりりと胸が痛んだが、極力意識しないようにした。
長門とは違って、古泉は性格的なものまでは変化させられていない。だからあの冷淡な態度は古泉本来のものなのだ。むしろ俺の知る、常に嘘くさい笑顔を絶やさないあいつのほうが演技で作られた偽物だ。
そんなことをこんなふうに実感することになるとは夢にも思わなかったが。
ある日突然超能力に目覚めた世界の平和を守るヒーローで、ハルヒを神のように敬いながら、俺を『鍵』として特別に遇する。それらの条件がそろわない限り、古泉は無条件に俺に笑顔をふりまいたりはしないのだ。
最近では古泉も素の表情をだいぶん見せるようになっていたのに。
五月からこっち、積み重ねてきたものが一瞬のうちに失われてしまった気分だった。それについてはハルヒにしたって同じはずだが、古泉のそっけない態度のほうが、どういうことだか余計に堪えた。
だがそんなことを今考えていても仕方がない。
俺らしくもなく地味にダメージを受けながら、ほぼ自動的に足が向かっていたのは、昨日と同じ喫茶店だった。授業が終わったらここで落ち合おうと、昨日ハルヒに約束させられていた。
あれだけの醜態を目の前で見せられていながら、まだ俺を見捨てないでいてくれるというのは、ハルヒにしてはずいぶん寛大な態度じゃないだろうか。俺がジョン・スミスだと名乗ったことが効いているのか、昨日文芸部室で起こった不可解なできごとが、理解できないまでも気にかかっているのか。
この世界のハルヒにとっては、俺と俺に関わるすべては生まれてこのかた初めて遭遇する、待ちに待った『ふしぎ』に相当するのだろうから、簡単にペテンと決めつけて切り捨てるのも惜しいのに違いない。
うらさびれた風情の喫茶店の自動ドアに身体をすべり込ませると、妙に目立つ美男美女の組み合わせはすでに席についていた。
「ジョン、遅かったじゃない!」
すかさず立ち上がってハルヒが手招いた。元気だなおまえ。
四人がけのボックス席へと歩み寄ると、ハルヒの隣の古泉と目が合った。互いに言葉もなく、数瞬のあいだそらさずにいた。それから軽く頭を下げて挨拶をした色男の顔はどこか浮かない表情だった。そんなに俺と会うのが嫌だったのだろうかこいつは。それとも俺とハルヒを会わせたくなかったか?
またぞろちりりと焼けた胸の痛みを俺は無視して、ふたりの向かいの席につき、コーヒーを注文した。
「なによ陰気な顔ね。今日は学校行ったんでしょ? あっ、さては昨日の宇宙人とか未来人とかに、この人頭がおかしいんですって言いふらされたんでしょ」
「そんなことにはなっとらん」
「じゃあ何よ」
注文した飲み物が来るわずかのあいだも待てんのかこいつは。
大きくため息をついて、俺は今日学校であったことを洗いざらい話すことにした。別に隠すようなことじゃない。朝倉が大変に怪しく、その朝倉が執着している長門にはきっと何かがあるんだろうが、それを突き止める手立てがないこと。以上だ。
話の途中でコーヒーが来たが、それで喉を湿らせる暇も俺にはなかった。話し終えたときにはすっかりそれはぬるくなっていて、ひとくち含んだところで、苦味に思わず顔をしかめた。
「あんた馬鹿なんじゃないの?」
真剣な顔で話に聞き入っていたハルヒがいきなり言ったことがそれだったので、俺としては自分が馬鹿であることに異議はないというか反論したくてもできないというか、ハルヒもついでに古泉までもが俺よりはるかに頭がいいということを知っているわけだが、それでもいきなり脈絡もなく非難されると憤慨せずにはいられなかった。
「馬鹿で悪かったな」
「そういう意味じゃないわよ。これだけヒントがあるのに気づかないなんて、あんた相当鈍いんじゃないって言ってるの」
「どういう意味だ」
ヒント? そんなもの俺の話のどこにあった?
「よおっく聞きなさい」
得意満面の笑顔でハルヒは身を乗り出した。こういうの前にも見たことあるな。孤島のあれか。自信満々で間違った推理を披露していたときの顔と同じだ。
「この事件の犯人は、ズバリ、その宇宙人よ!」
「……どの宇宙人だ」
「ええと、なんだっけ、その長門有希っていう文芸部員よ」
その瞬間、俺のハルヒへの信頼度が一気にがた落ちしたのは言うまでもない。
「馬鹿はおまえだ。なぜ長門がそんなことをせねばならん」
「その宇宙人はね、きっといろいろなことが嫌になってたのよ。情報なんとか体とやらに顎で使われるのにも飽き飽きだし、まわりが役立たずなせいで、事件が起こるたびに一番働かされるのはいつも自分だし」
事件は主におまえが起こしてたんだがな、ハルヒ。
「なんであたしがこんなことしなきゃいけないのって、思っちゃったとしてもなんのふしぎもないわ。こんなドタバタコメディみたいなものにはもうつきあっていられない、だったら世界のほうを変えちゃえばいいって、きっと思い詰めちゃったのよ」
明朗に言い切られた言葉に、俺は深くため息をついた。
「長門がおまえみたいな性格をしてたならそうかもしれんが、あいにく、あいつはそういうキャラじゃないんだ」
「その性格が変わっちゃってるっていうんでしょう?」
これには俺も一瞬、言い返すことができなかった。
「不満があったのは外部の世界にだけじゃなかったのね。自分も変わりたかったのよ。そして普通の学校生活を送りたかったの。部活をしたり、恋をしたり、将来のことで悩んでみたり、そういう普通のことをね。でもほとんど万能だった自分の力をまったくなくしてしまうのはやっぱり不安だったから、身近なところにボディーガードをひとり置いたのよ。どうよこのあたしの推理、蟻の這い入る隙間もないわ!」
俺はものすごく反論したかったのだが、とっさに言葉を思いつかなかった。
実際、珍しいことに、ハルヒの推理には穴がなかった。これが正解だとは言い切れないが、可能性として考慮するに値するくらいには、十分に筋が通っていた。
だがしかし。
もしそれが真相ならば、今のこの状況は長門が望んだものだということになる。あいつにSOS団は不要なものだったのか。文芸部室でひとりきりで本を読んでいたいと、あいつは本当に思っているのか。
いや、そうではないだろう。俺の記憶が改変されていないのがその証拠だ。栞にメッセージを残すというまわりくどいやり方ではあったが、長門はSOS団の五人を集めようとした。そこには単なるプログラムの発動キーとしての役割よりも、深い意図が隠されているように思えてならない。
それぞれのプロフィールを、役割を、重くてつらいと感じていても、それでもその五人が一緒にいることに、長門は楽しみを見出していたのではないだろうか。
春先から少しずつ長門の表情が変わってきていたことを俺は知っている。感情のない機械としてではなく、その使命ゆえに仕方なしにというのでもなく、何をするにもそこには長門個人の意思や希望といったものが少なからず介在していた。
俺たちが長門を必要としているのと同じように、長門も俺たちを必要としていたはずだ。
逆に言うと、だから、なのかもしれない。
ハルヒのたわけた能力という俺たちを縛りつけるものなしに、もっと自由に、ありふれた方法で、長門はSOS団を再編成したかったのかもしれない。
五人は今、ふたつの高校に分離されてはいるが、そのふたつは近く、集まることのできない距離じゃない。昨日はからずもハルヒが提案しかけたように、文芸部室かあるいは駅前の喫茶店に放課後集合することで、単なる仲良しグループとしての活動を維持することは可能だろう。
だが本当にそれでいいのか?
「もしもその仮説が正しいとするならば」
これまでずっと黙っていた古泉がふいに口を開いた。
「その宇宙人はあなたの記憶を残す必要も、緊急脱出プログラムを用意する必要も、なかったのではありませんか? そもそも誰にも世界が変化したことを悟られないようにしておけばいい」
「あら、それもそうね」
「いや、それじゃあダメだったんだ」
俺は考え込みながら言った。
俺の記憶を残し、緊急脱出プログラムとヒントの栞まで用意したからには、長門はこの改変が覆されることをなかば予期していたんじゃないのか。この平穏な世界がいいか、もとの滅茶苦茶な世界がいいか、長門自身にも決めかねたから、決断を俺に委ねようと考えたんじゃないのか。
そこでふと俺は疑問を抱いた。
だとしたら緊急脱出プログラムが最初から不完全なものとして用意されていたはずはない。長門がそれを組み込んだときには、それは正常に動作するものだったはずだ。エラーはここ数日のうちに、長門以外の誰かによって仕組まれたと考えなければならない。
……誰に?
真っ黒い髪をさらりと流して不敵に笑う女の顔が思い浮かんだ。
可能性はある。あるというか、非常に高い。あいつはもとの世界からはすでに存在を抹消されており、この世界でしか生きられない。この世界の存続を最も強く望んでいるのは、おそらくあいつだ。
――朝倉涼子。
「ここでぐだぐだ話し合ってても始まらないわ、証拠を掴みに行きましょう!」
突如、意気揚々と告げられた言葉に、考えごとにふけっていた俺はぎょっとした。
「証拠って、なんの!」
「決まってるじゃない、その宇宙人が犯人だって証拠よ」
「まだ長門犯人説が正解だって決まったわけじゃないだろ!」
「それをはっきりさせるために証拠が必要なんじゃないの。推論をいくら重ねたって、状況証拠だけじゃ逮捕状は出せないんだから」
もっともだ。大変に認めたくないが、ハルヒの主張は正しい。だがしかし、長門をいくら問い詰めたところで証拠なぞは出てこないだろう。
「長門ともあろう者が証拠なんか残してるとは思えないね。それに長門にはもう俺が放課後に話を聞いてきたところだ」
「あんたの尋問なんかてんであてにならないわ」
ハルヒは腕組みをしてふんぞりかえって俺を見た。こいつにとっちゃ俺は、出会ってまだ一日しか経っていない浅い顔見知り程度のはずだが、いつのまにこんなに見下されちまったものやら。
「それにあんたはその宇宙人を犯人だと思って問い詰めたわけじゃないんでしょう。視点が違えばおのずと質問の内容も変わってくるものよ。返答に対する分析もね」
だめだ、一度言い出したこいつの意志を曲げることなど、お釈迦様でも不可能だ。
俺は心の中で長門に謝った。すまない、俺がふがいないばっかりに。
「それで、具体的にどうするつもりだ」
ちょっとつついて何も出てこなかったらこいつもあきらめるだろう。それくらいの軽い気持ちで俺は渋々ゴーサインを出した。俺自身が長門犯人説に瑕を見つけられずにいたというのもあった。
なんにせよ、どんな見当はずれの方向にでも動き出さねば何も始まらない。今はそういう閉塞的な状況だった。
「明日は土曜日よ!」
にんまりと笑うと、なぜかハルヒはその公然たる事実をさも自分の手柄であるかのように誇らしげに叫んだ。
「北高も授業ないわよね? だったら時間を自由に使えるわ。予告なしで押しかけるのがコツだと思うの。地検特捜部の強制捜査みたいなものよ。あ、古泉くん、あなたも来るのよ。ほかに用事があったって蹴っちゃいなさい。だってこれは、胸を張って誇れる人助けのための一大イベントなんだから」
古泉はその主の命令に、忠実な番犬よろしく優美にうなずいてみせた。
「かしこまりました」
「押しかけるって、どこへだ」
まさか、という思いを胸におそるおそる尋ねた俺に、ハルヒはきらりと輝く目をして告げた。
「宇宙人のマンションに決まってるじゃないの!」
ハルヒ、頼むからこの世界の長門をひどい目に合わせることだけはやめといてくれよ。
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[20071129]