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Your Eyes Only 6

 喫茶店を出ると外はすっかり真っ暗だった。冬の日は落ちるのが早い。
「じゃあまた明日!」
 腹をすかせたジャコウ猫みたいな足取りで、ハルヒはさっさとひとりで走り去った。これから家族と食事に行くんだそうだ。あの短気なハルヒが長門家襲撃を明日に設定したのはなぜかと思ったら、ちゃんと理由があったわけだ。
 すっかり置いていかれた形になった俺と古泉は、なんとなく気まずい空気の中、互いにぎこちなく視線をそらした。
「……帰るか」
 俺は小さくつぶやいた。今の古泉と一緒にいても気づまりなことばかりだ。古泉のほうでも俺の顔なんか見ていたくないだろう。
 ぼんやりとした胸の痛みをこらえて正面を向くと、ちょうど町並みの上にぽかりと月が浮いていた。満月だ。
「きれいな月ですね」
 いきなり聞こえた声に俺は相当驚かされた。声の主は当然古泉だ。ほかに近くに人影はない。
 俺に向かって話しかけたのだろうが、それにしては古泉の視線はまっすぐ月だけを見ていて、どこか物憂げだった。
「今でも、天体観測とかしてんのか?」
 ついそんなことを尋ねてしまったのはどうしてだろう。古泉のほうから話しかけられることをまるで予想していなかったから驚いて。そして、多分、四年近く前に変な超能力に目覚めたりしていなければ、こいつはきっと子供の頃に好きだったという天体観測をやめたりはしなかったはずだという思いが、俺の心の中のどこかにずっとあったんだ。
 古泉はわずかに目を見開いて俺を見つめた。
「……訊いちゃ悪いことだったか?」
「いえ、そんなことまで知られているとは思ってもみなかったものですから」
 わずかに微笑む古泉には今朝までの尖った気配がふしぎなことに存在しなかった。ほんの少しの寂しさと懐かしさをにじませながら、鼓膜に沁みこむような声で語った。
「天文学は今でも好きですが、いつのまにか自分で望遠鏡を覗くようなことはなくなってしまいました。純粋に見た目の美しさを楽しむよりも、なぜそれがそんな姿をしているのか、なぜ存在しているのかといった理論のほうに最近では心惹かれているからでしょうか」
「……そうか」
 残念なような、ほっとしたような気持ちで俺はつぶやいた。俺の知る古泉が、ハルヒのせいですべてを失ったと考えるのは早計なのだと、思わぬ形で保証されたようなものだった。どんな境遇に投げ込まれようとも、古泉はその中でちゃんと自分のやりたいことをやっている。あのいつもの鬱陶しいくらいに長い解説も、あいつの興味の主体を的確に反映したものなのだ。
 そんな感慨に浸っているうちに、気がつくと古泉はひどく真剣な顔をして俺を見つめていた。
 どうした?
「お時間が大丈夫なら、少し話をしませんか」
 その整った形の唇から飛び出してきた言葉の意外さに、今度は俺が目を見開く番だった。
 今の古泉が俺になんの話があるというのだろう。想像もつかない。
 しかし俺はうなずいていた。昨日は思いがけず外泊してしまったのだから、今日は早めに帰らないといけないという思いがちらりと頭をよぎったが、あえて無視した。
 そのとき嬉しそうに笑った古泉の表情には見覚えがありすぎて、俺はひそかに切なくなった。
 さて、話をするといって古泉につれて行かれたのは近くの公園のベンチだった。はっきり言って寒い。これならいっそ、もう一度喫茶店に戻ったほうがよかったんじゃないかと思うほどだ。
 三秒で俺は古泉についてきたことを後悔したが、古泉のほうは寒さなどろくに感じていない様子だった。
 街灯の明かりが降り注ぐベンチに仕方なく並んで腰を下ろした。吐く息が白く、光を浴びてきらきら輝く。
 古泉は膝の上で長い指を見せびらかすみたいに両手を組み合わせ、そこに目を向けていた。思索的な横顔は美しいと言ってやってもいいほどだが、話がなかなか始まらないのは困りものだ。いったい何をためらっていやがる。
「……古泉」
「僕は、あれからずっと考えていたのですが」
 急かそうとしたとたんに話は始まった。だがあれからって、どれからだ。いきなり指示代名詞を使うなこのアホが。
 古泉は俺の内心の罵りなど知りもせず、淡々とした声音でつづけた。
「パラレルワールド移動か時空改変かと、僕はふたつの仮説を提唱しましたが、現代の量子力学および相対性理論を鑑みるに、そのふたつを明確に切り離すことはできないようです。時空を改変しようとすると、その瞬間に世界は無限の数の平行世界に分岐します。中には時空改変に失敗する世界もあるでしょうし、成功したものの中でも、こことは異なる様々な状態が存在しているはずなのです。さらにはあなたがなんらかの方法で、もとの世界へ戻る手段を見つけたとしても、その瞬間にもまた世界は無限大の分岐を持ち、その中にはあなたが消えても僕たちは消えないといった世界もあるはずなのです」
「…………は?」
 途中で理解を放棄してしまった俺を誰が責められよう。古泉の話が長くて難解なのは今に始まったことじゃないが、しかしこれはやりすぎだ。
「すまん、もっと簡単に言ってくれ」
「あなたがもとの世界に帰ることを選択しても、それは今の僕や涼宮さんや、この世界そのものを消し去ることにはつながりません。そのことで昨晩あなたを責めたのは僕の間違いでした」
 古泉はさらりと言い直して、それきり黙った。なんだ、そんなに簡単に言えるなら最初からそうしろよと本当は言ってやりたいところだったが、物静かにうつむいた古泉の端整な横顔を見ていたら、そんな言葉は口の中で消えた。
 まわりくどく、わかりにくいが、こいつは今、俺に謝っているんじゃないだろうか。
 ごめんなさいと素直に言うことはせず、かわりに自分に非があったことだけ認めるなんて、無駄にプライド高くてナイーヴで、屈折しているおまえらしいよ。
 そうだ。
 ふいに俺は深く、深く、そのことを実感した。
 これは俺の知っている古泉一樹と同じ人間だ。過去の経験を共有しないというだけで、その人格の基本的な部分は少しも変わっちゃいない。
 あの古泉なんだ。
 急に胸にこみ上げるものがあって俺は動揺した。こんなところでいきなり泣き出すなんて変すぎる。ぐっと奥歯に力を込めて我慢した。多少肩に力が入って、変な顔になっていたかもしれないが、幸いにも古泉はそれに気づいた様子はなかった。
 古泉は自分の手から目を離さずに、またそっとつぶやいた。
「あなたは自分の世界へ戻る方法を探し求めておいでですが、それは本当に必要なことですか?」
 ひんやりと耳から頬にかけて風が通る。足元から這い上がってくる寒気に俺はぶるりと背筋をふるわせた。
 古泉の問いかけに、俺はすでに答えを出している。緊急脱出プログラムを発動させるためにエンターキーを押したとき、俺はこの世界ではなく、でたらめなことばかりで気の休まる暇もない、もとの世界を選択していた。
 にもかかわらず、古泉の言葉に俺の心は不安定にゆれている。
 ここにこのままいるのも悪いことじゃないんじゃないか。もしもこの世界が長門が望んだものだったとしたら、俺が帰りたいと願うことは、長門の望みを否定することになる。
 そうまでして俺は戻りたいのか。あの無茶苦茶な世界に未練があるのか。
「必要なことだ」
 自分に言い聞かせるような声で断言すると、古泉はようやく顔を上げて俺を見た。憂鬱そうな、少し悲しげにも見える冷たい貌が、本心を隠すための見慣れた笑みをゆっくりと浮かべた。
「わかりました」
 おまえはいつも俺の決定に異を唱えることはないんだな。
 そう言いかけて、それはもとの世界の古泉に対する言葉であるのに気がついた。この古泉は違う。いや同じだ。でも違う。
 俺の感覚は混乱する。どこまでを期待し、どこまでを頼っていいのかわからない。少なくともこの古泉には俺を助けなければならない義理はない。
 そのはずなのに、古泉の目があまりに真摯に思えて、俺は目を離せない。そこに特別な感情があるのではないかと、心が自動的に探してしまう。
 冷たい夜の公園なんか誰も通りかからない。ときおり吹く風の音が甲高く鼓膜をふるわせる。吐く息は白く、身体がふるえはじめるくらいに寒いのに、そのときだけは全部を忘れた。
 俺たちはそれからしばらくのあいだ、無言のままで視線を合わせていた。

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[20071130]