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Your Eyes Only 7

幕間

 玄関からインターホンのベルの音がする。誰が鳴らしても同じ音がするはずなのに、わたしにはそれが誰だかわかる。
 なぜわかるのだろう。押し方に特徴があるのだろうか。でもそんな理由ではない気がする。ただわかる。
 彼女だ。
 今は会いたくなかった。会うのが少し怖かった。わたしはきっと変な態度を取ってしまうだろう。彼女はそれに気づかないではいられないだろう。でもここでベルに応えずにいるのも、すでにおかしな態度と言えるかもしれない。彼女はなんと思うだろうか。
 彼女にどう思われるかを、なぜわたしは気にするのだろうか。
 またベルが鳴る。今度は声も聞こえた。
「ここを開けて」
 いないふりをすればいい。そうすれば彼女は立ち去るだろう。
 そんな浅はかなわたしの思惑をすべて見通しているかのように、彼女の声がする。
「いるんでしょう? ここを開けて」
 彼女は決して声を荒らげたりはしない。わたしが彼女に逆らわないことを知っているのだ。彼女は親切で、そしてやさしい。こまごまとわたしの面倒を見てくれる。
 わたしを必要としてくれる。
 わたしは玄関のドアへと引き寄せられる。薄い板一枚を通して彼女の呼吸が感じ取れる気がする。
「今日は、帰って」
 搾り出すようにささやいた声に、しかし彼女は引き下がらなかった。
「今日はグラタンを持ってきたの。ちょうどいい色に焼けているわ。両手が塞がっているから扉を開けることができないの。あなたが開けて。わたしをそこへ、入れて」
 そしてやはり、わたしは彼女を拒むことができないのだった。
「ありがとう」
 ドアを開けると、涼しげな笑みを浮かべて彼女が部屋へ入ってくる。手袋状の鍋つかみをはめたその両手には、グラタンの大皿が支えられている。湯気を立てている。美味しそうな匂いがあたりに立ち込める。急にわたしは自分が空腹であることに気づく。
「一緒に食べましょう」
 その言葉にわたしはうなずく。
 コタツの上に鍋敷きを置き(そういえばこれも彼女が持ち込んだものだ)、グラタン皿を慎重に据えつける。取り皿を用意するのはわたしの役目だ。フォークは二本、同じ形のものがある。
 どうして二本なんだろう。ここに住んでいるのはわたししかいないのに。
 向かい合って座ると、自然に彼女がわたしの分を取り分けてくれた。すべてが彼女の差配のもとにスムーズに進んでいく。彼女に任せておけばいい。こんなふうにして、わたしたちふたりはこの四年近くもの日々をすごしてきたのだ。
 ふいにぞくりとする。四年というのはずいぶん長い時間だ。彼女に初めて会ったとき、わたしは中学生だった? 小学生だった? そんな頃からわたしはここにひとりで暮らしていた?
 今日の夕方、わたしは『彼』に嘘をついた。彼女といつどんなきっかけで知り合ったのか、わたしは何も覚えていない。その頃の記憶はあいまいで、気がつくともう彼女はひどく身近な場所にいた。
 何か特殊な目的があってわたしに近づいた……?
「彼に何を言われたの?」
 おだやかな微笑みを浮かべたままで彼女がささやいた。
「隠してもだめ。全部顔に出てるもの。わたしが怖くなったんでしょう」
 そんなことは、ない、と言いたかったけれども、否定もしきれなくてわたしは黙り込む。
「でも安心して、わたしはあなたを傷つけたりはしないから。あなたが望んだからわたしはここにいるの。あなたはわたしが存在する理由。あなたを傷つける者をわたしは許さない。たとえそれがあなたでも」
「……意味がわからない」
「そう?」
 ゆっくりとフォークでグラタンを口に運びながら彼女が話すのをわたしは見つめる。
「本当はわかっているくせに、わからないふりをしているだけなのよ。そうやって責任から逃げているんだわ。だけどわたしはかまわない。ずっとそう思ってきたの。こんな時間がこの先もつづくなら」
 わたしは彼女に何を言っていいのかわからない。理由もないのに、彼女は嘘をついていないと思う。彼女は本気だ。彼女はわたしを守ろうとしている。
 何から?
「……あなたはわたしの、何?」
 ようやくそれだけをつぶやくと、彼女はそっと目を伏せた。
「なんなのかしら。わたしもそれを知りたいわ。ここでもわたしはあなたのバックアップにすぎないのかしら。それでもあなたにわたしは必要?」
 彼女の問いかけは真摯なものだった。それだけにわたしは嘘をつけない。自分の気持ちのあいまいさを、うまくごまかすことができない。
「わからない」
 小さくつぶやくと、彼女はまた薄く微笑んだ。
「ひどい人ね」
 ふたりで黙ってつつくグラタンはなかなか減らない。最初は火傷しそうに熱かったのに、気がつくともうずいぶん冷めてしまっている。クリームが硬くなり、ポテトがこわばって喉につかえる。
 そんな美味しいとは言えないグラタンを、しかしわたしたちは淡々と食べた。それが義務であるかのように。もう何年も前から決まっていたことみたいに。

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[20071201]