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Your Eyes Only 8

 この世界の長門の家を訪問するのはこれで二度目になるが、一度目のときより百倍くらい俺は緊張したし、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「よう長門」
 俺がその短い五文字の台詞も言い切らないうちからハルヒは俺を押しのけて、「おっじゃまっしまあーすっ」と有無を言わせぬ声を張り上げていた。
 まったく予告なしの自宅訪問(ハルヒが言うところの家宅捜索)を敢行したのは、土曜の午後二時すぎだった。集合場所の駅前に、古泉も律儀に姿を現し、三人そろって長門のマンションを目指したが、俺はその間中、どこからともなく朝倉が現れて襲いかかってくるんじゃないかとびくびくしていた。
 しかしそんなことはなく、無事マンション前まで到着し、オートロックを開けてもらって、七階までエレベータに乗った。
 しかし長門。まったく突然の訪問だというのに、しかもおまえにとっちゃ見慣れぬ顔がふたりもおまけでくっついてきているというのに、その動じなさは少しおかしくはないか。せっかく宇宙人に作られたヒューマノイドインターフェース設定を捨てたんだ、もうちょっと感情をストレートに表に出してもいいと思うぞ。
 という俺の内心など知らず、長門は淡々とした態度で俺たちを受け入れた。急ですまないがちょっと上がらせてもらっていいかと、理由も告げない怪しい限りの言い種に、こくんとただうなずいた。何をしに来たのかくらいのことは訊いたほうがいいと思う。まさかおまえ、変な押し売りとかキャッチセールスみたいな奴にも黙ってついていってるんじゃあるまいな。そんなのはいかん、いかんぞ。おまえは平気でもお父さんが許しません。
 ところでこの部屋に昼間来るのは初めてかもしれんな。大きくとられた窓からまぶしいくらいの明かりが射し込んでいる。
「わあ、広ーいっ、ここにひとりで住んでるの? さびしくない?」
 ずかずかリビングに踏み込んで行くなり、ハルヒはそんな無神経なことを言い放った。
 長門は答えない。ハルヒの言葉に引いているというわけじゃなくて、それ以前から今日の長門はどこか沈んだ雰囲気だった。
 何かあったのか?
 尋ねてみようかとも思ったのだが、それをする前にハルヒがどんどん勝手にキッチンだのリビングの隣の和室だのに入っていこうとするので、俺は必死でそれを止めなければならなかった。
「なによ、ここを見なかったら何しに来たのかわからないじゃない」
「だからってなあ」
 微笑んでいるだけで手を出そうとしない古泉はあてにならない。ここはひとつ俺がこいつに常識というものを教えてやらねばなるまい。そう覚悟を決めたときだった。
「いい」
 かぼそく、繊細な声で長門は言った。
「好きなところを、調べて」
「ほら、本人がそう言ってくれてるんだから」
 ハルヒは声を弾ませるが、しかし。
「本当にいいのか長門」
 第一、おまえ何を疑われて何を調べられているのかわかってないだろうに。
 だが長門の答えは変わらなかった。プライベートを暴かれても何も困ることはないというわけか。俺だったら別に大して隠していることがなくても、部屋の中を詳しく調べられるのなんかごめんだけどな。
 古泉を助手としてこき使いながらのハルヒの調査は、しかしながら大雑把なものだった。当人にも自分が何を探しているのかわかってないんだからしょうがないだろう。
 ばたばたと騒々しくハルヒと古泉が室内を捜索する間中、俺と長門は部屋のすみっこでぼんやりとそれを眺めていた。
「ああんもう、どうしてもっとわかりやすいUFOの呼び出し専用リモコンとか置いてないのかしら!」
 そんなもんは本来の長門のところにもなかったよ。いまどきの宇宙人をどれだけレトロな存在だと思っとるんだこいつは。
 最初から何も見つかるわけがないとは思っていたが、やはり徒労に終わりそうだ。よかったと言うべきか、悔しがるべきなのか、俺にとっては微妙なのだが。
「疲れたあ」
 ひとしきりあちこちひっくり返し終えたハルヒは、リビングのコタツのところに許可も取らず勝手に座った。その目の前に、す、と湯気を立てた湯飲みが差し出された。
「どうぞ」
 いつのまに用意したのか長門が全員分のお茶を煎れて、端然と座布団に座っていた。
 ああしかし、朝比奈さんを除くSOS団四人というある意味見慣れた面子であるが、その内実はずいぶん妙なことになっているこの四人でコタツを囲むという状況は、なんとも落ち着かないものであるなあ。
 まず長門。すっかり気分がメランコリックになっているせいか、その反応がもとの世界の長門と似通ってきてしまっているが、今は内気で傷つきやすいただの少女であるはずの長門は、現在の異常事態を引き起こした容疑者としてここにいる。
 そしてハルヒ。その嫌疑を追求する情け容赦を知らない鬼捜査官、を自認するのはいいが、こいつはただの迷惑な女ではないかという気がしなくもない。
 古泉の立場はよくわからない。ハルヒにただついてきただけとも見えるが、少しは俺をもとの世界に戻そうとする意欲も見せている。その真意はどこにあるんだ。単なる親切心なのか、それとも俺をハルヒから引き離したいだけなのか。
 そして俺。この世界は異常だと、ひとりで騒ぎ立てる頭のおかしいトラブルメーカー。ってことになるんだろう。とりあえず、今は。
「すまないな、不愉快な思いをさせて」
 そっとささやきかけると、長門は眼鏡の奥の目に不安定な感情をいっぱいにためて、俺を見つめた。何か言いたいことがあるのか?
「ねえ長門さん、この際だから正直に白状しちゃいなさいよ」
 脇から声をかけてきたハルヒの存在をこんなに鬱陶しいと思ったことはない。ずずーっと音を立てて熱々のほうじ茶をすすると、ハルヒはコタツ台の上に身を乗り出した。
「そこのジョンから話は聞いた? 彼がもといた世界はここよりずっと面白いことになっているらしいのよ。あたしはね、彼をもとの世界に戻してあげたいの。…ううん、あたしも一緒にそこへ行きたいの。だってわくわくするじゃない。それでね、まずはこの世界がこんなふうになっちゃった原因を突き止めないといけないと思うわけ。原因ていうか…犯人?」
 おいおい、何を言う気だハルヒ。と制止しようとしたのだが、いま少し遅かった。
「あなたがやったことなんでしょう?」
 思い切り指を突きつけられた瞬間の長門の顔は見ものだった。ぽかんとした。それから困惑し、言われたことの意味を少しずつ咀嚼すると、怯えをあらわに瞳をゆらした。
「…知りません」
 長門の言葉に嘘はない。そのことに俺は大して多くもない額の貯金を全部賭けてもいい。
 ハルヒは長門のその反応に毒気を抜かれたらしく、らしくもない困り顔になって、座布団の上に重心を戻した。
「これじゃあ、あたしが悪者みたいじゃない」
 立派に悪者だろうよ。
「あなたを責めているのではないのです。ただほかに可能性も見出せなかったものですから、どこかに突破口がありはしないかと、儚い望みを抱いて今日はこちらをお訪ねしました」
 意外にも古泉が隣からフォローのための言葉を寄せた。長門は古泉に視線を向けると、適切な言葉を見出せない様子で眉根を寄せた。
 そもそも長門犯人説が正しいとも限らないのだし、もし本当に長門がそれをしたのだとしても、その証拠が残っているとはとても思えない。
「だから無駄だって言っただろう」
「あんたはそればっかりね! もうちょっと自分で動こうとは思わないわけ」
 諌めるつもりが食ってかかられて閉口する。ハルヒの言うことは間違っちゃいないのだが、いつも多少やりすぎるんだよな。
「……そうだな。あとは自分でなんとかするよ」
 なんとかといっても、どうすればいいのかは相変わらずわからないのだが、俺はハルヒにここまでやってもらったことに、とりあえずの感謝をこめて微笑んだ。ハルヒはむしろ俺のそんな反応が不満だったらしく、むうと唇を尖らせている。
 古泉は微動だにしないおだやかな微笑をを浮かべており、長門はといえば、淡い憧れに似たまなざしで俺とハルヒのやりとりを見ていた。
 それからはまったくの雑談に花が咲いた。といっても喋っていたのは主にハルヒで、ツッコミ役に俺、おだやかな合いの手役に古泉、とまどいながら訊かれたことに小さく返事をする長門というメンバー構成だ。長門の表情以外は、春先からこっちSOS団部室で日々展開されていた光景とどこも変わらない。思わず懐かしさを感じるほどだった。ここに朝比奈さんもいてくだされば完璧なのにな。
 お茶出しはこの場では長門の担当で、わんこそば並みのハイペースで次々湯飲みに茶が注がれるので、俺はそれを飲み干すのに必死だった。あとから無理して何杯も飲むんじゃなかったと大いに悔やんだ。しかしそのときは、せっかく長門が注いでくれるんだから飲むのが礼儀だと思ったんだ。
 まあそんなこんなで思わぬ楽しい茶会の開催となったわけだが、本来の目的を見失っていると指摘されても文句は言えない。あまり長居されても長門も迷惑だろうということで、場は一時間ほどでお開きとなった。
 望まぬ来客でしかなかったはずの俺たちを、長門は玄関まで見送りに出た。ハルヒが最初に廊下に出て、古泉が半端に外に身体をはみ出させながら、扉を手で支えている。一番最後にもたもた靴を履いていた俺を、長門は黒真珠みたいな色の目でじっと見つめた。
 また、何かを話したがっている気配がする。
「どうした?」
 俺は長門を脅かすことのないように、やさしい声で問いかけた。長門はそれでもびくりと肩をゆらした。
「昨日、なんかあったのか? ……朝倉か?」
 朝倉の名前に長門は大きく反応する。おいまさか脅されたとか口止めされたとか言うんじゃないだろうな。
「長門」
 とっさに細い肩を掴もうとのばした手を、長門は一歩さがって避けた。少しうつむいた顔には葛藤の色がある。
「なんでも、ない」
 しかしようやく持ち上げられた視線の中には、不安定ながらも決意があって、俺には言えることが何も見つからなかった。
「そうか…」
 すでに忠告はした。そのうえで長門が俺の口出しを望まないのなら、しばらくは見守るほかはない。
 だけど気をつけてくれよ。あれは目的のためなら手段を選ばない女だぞ。
 さきほど急に動いたせいだろうか、長門の眼鏡が少しばかりずれて下がっている。前から思ってたんだが、サイズ合ってないんじゃないのか。
「長門」
 俺が指摘すると、はっとして細い指がそれを直す。その姿に俺は小さく笑った。
 ああ、やはり。
「眼鏡、ないほうが似合うぞ」
 そのときだった。
 一瞬、長門は驚いた顔をしたと思う。あいつのそんな表情は珍しいから、目に焼きついている。しかしそれはあっという間に消え、完全なる無表情がとってかわった。
 そして、そのほとんど非人間的なほどに感情の色のない両眼から、音もなく透明な雫がこぼれ落ちた。
「長門……?」
「パスワードを認識」
 薄い長門の唇が、それから淡々と紡いだ言葉の響きは、機械的な音声にひどく似通っていた。
「想定外の妨害により、メインの緊急脱出プログラムが失敗したことを確認した。これより予備のプログラムを発動させる。今回は鍵を集める必要はない。期限は今から一時間。前回と同じ場所で、同じ動作をひとりきりで選択すること。それにより、あなたは再度時空修正の機会を得る。ただし成功の保証はできない。また帰還の保証もできない」
 俺はとっさに反応できなかった。すぐ近くに立っていた古泉もまた、息を呑んで長門を見つめていた。少し離れたところにいたハルヒだけが、何事かが起こった気配をかぎつけて、「ちょっとなんなの」なんて声を張り上げていた。
 これはあれだ。あの栞に書かれていたメッセージと同じ種類のものだ。
 ゆっくりと頭がそれを理解する。俺にこの世界からの脱出方法を指示する第二のメッセージ。それがまさか、今度は長門の体内に眠っているなんて、いったい誰が想像しただろう。
 重要なことを一度にいくつも言われた気がするが、中でも一番大事なのはこれだ。
 俺は、これから一時間以内に北高文芸部室に行って、エンターキーを押さないといけない。
 急に心臓が焦りと緊張で早鐘を打ち出した。
 だがそのとき、ふいに長門の身体は力を失って崩れ落ち、俺は慌ててそれを支えなければならなかった。
「長門!」
 どこかぼんやりとした長門の目には感情が戻っていた。それは俺を捉えると、一度瞬きをした。唇がふるえる。涙の跡を残した頬にふしぎそうに指でふれ、それから長門はかすかな声で、次の言葉をささやいた。
「彼女に伝えて。……ありがとう」
 彼女って、誰だ。
 長門はすうと途切れるように意識を失った。ずしりと身体が重くなる。
 いつのまにか俺の隣に膝を突いていた古泉が、俺の腕からその重みを引き取った。床にそっと横たえる。ハルヒまでもがそう広くもない玄関に乱入してきて、盛大に顔をしかめると、自分の着ていたコートを脱いで長門の身体にかけた。
「ここはあたしがなんとかする。行って。古泉くん、あとのことはお願いね」
 ハルヒはまっすぐに俺と古泉を見てそう言った。え、おい、おまえ。
「お任せください」
 古泉はひどくあっさりうなずくと、俺の腕を取って立ち上がった。おい。俺の意見も聞かずにどんどん話が進んでいく。
「今度はちゃんと、もとの世界に帰るのよ」
 ハルヒは曇りのない表情で笑った。おまえ、俺と一緒にでたらめワールドに行きたいなんて、おまえ、ついさっき言ってなかったか。ここに残っちまっていいのか。
 ……いいんだ。それがハルヒの決断なんだ。俺がこの世界から去ることによって、この世界は瞬時に消滅するかもしれないし、このまま面白みもなく残るかもしれない。それらの可能性を全部ひっくるめてハルヒは受け入れたんだ。
 それがわかったから、俺には何も言えなかった。ただひとこと、できるかぎりの気持ちを込めて、「ありがとう」とだけ告げた。
 その瞬間のハルヒの笑顔の出力は百ワットを軽く超えていたと思う。

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[20071202]